あの日ここから
 =60年目の被爆者= 1

佐世保海軍病院諫早分院の救護記録に関する資料に目を通す濱崎梢さん=長崎市若竹町の自宅

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あの日ここから =60年目の被爆者= 1 濱崎 梢さん(71)
=長崎市若竹町=
佐世保海軍病院諫早分院
「お譲ちゃん 水ばくれんね」

2005/08/03 掲載

あの日ここから
 =60年目の被爆者= 1

佐世保海軍病院諫早分院の救護記録に関する資料に目を通す濱崎梢さん=長崎市若竹町の自宅

濱崎 梢さん(71)
=長崎市若竹町=
佐世保海軍病院諫早分院
「お譲ちゃん 水ばくれんね」

焼けただれた皮膚、飛び出した眼球、男性か女性か分からない。

負傷者の群れはあっという間に病室を埋め、すぐに廊下へ、広場へとあふれ出した。

泣きたいくらい怖かった。

佐世保海軍病院諫早分院(現在の諫早総合病院=諫早市=の一部)の敷地内の官舎に、機関長だった父と母、兄、弟、妹の六人で暮らしていた。十一歳。あの日のことは、脳裏に鮮明に焼き付いたままだ。

官舎の玄関前で遊んでいたら、真っ白な光が走った。建物のガラスがビリビリと今にも割れそうな音をたてた。「焼夷(しょうい)弾が落ちたのかもしれない」。近くの防空壕(ごう)をめがけて走りだすと、ドーンと音が響いた。倒れ込むように壕に逃げ込んだ。

「庁舎前に集まれ」。四十歳代半ばの看護長の号令がかかったのは、それから二、三時間後。分院内の軍医や衛生下士官、衛生兵、看護師、職員に交じって庁舎前にむしろを敷き詰めた。

「近くの諫早駅に負傷者を乗せた列車が到着する、受け入れ態勢を整えてほしい」。看護長の口調にただならぬ事態を感じた。

負傷者がトラックなどで次々運び込まれ、「水を、水を」とうめき声を上げる。バケツを手に、病院と官舎近くの井戸を何度も往復した。

「お嬢ちゃん、水ば飲ませてくれんね」

広場で横になっていた男の人から突然、腕をつかまれた。震えながら、ひしゃくで水をすくい、口にふくませた。負傷者とのそんなやりとりが、足元が暗くなるまで延々と続いた。

長崎原爆戦災誌によると、原爆投下後一カ月間に千人近くの負傷者が同分院に運ばれた。原爆投下の瞬間に遭遇しなくとも、被爆者の救護などで間接的に放射線を浴びた人は「三号被爆者」として被爆者健康手帳交付の対象。母親は手帳の交付を受けた。

少女は大人になり、結婚後も「被爆者」であることを隠し通した。手帳交付を長崎市に願い出たのは、健康に不安を抱いた六年前。しかし、医師でも看護師でもない十一歳の子どもの”救護活動”は、なかなか認めてもらえなかった。

当時の状況を思い出すたびに、手紙をしたため提出した。真新しいピンクの手帳が届いたのは、被爆六十年が明けた今年二月のことだ。手帳の表紙をめくるたび、水を求め、呼び止められたあの手の感触がよみがえる。

■ □ ■

「原爆被害はパズルのようなもの。一人一人の証言が被害の全容を明らかにする」―。爆心地近くで閃光(せんこう)を浴びながら一命を取り留めた人、投下直後長崎に入り惨状を目にした人。そして長崎から離れた土地で被爆者の救護活動に従事した人。被爆者たちが目にした長崎を、「あの日」の場所からたどる。