原爆を歩く
 =碑巡り案内= 6

グビロが丘にそびえ立つ「原爆犠牲者慰霊碑」=長崎市坂本1丁目

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原爆を歩く =碑巡り案内= 6 原爆犠牲者慰霊碑 (長崎市坂本1丁目、1957年8月9日建立)
◆ 未来奪われた医学生ら

2005/07/12 掲載

原爆を歩く
 =碑巡り案内= 6

グビロが丘にそびえ立つ「原爆犠牲者慰霊碑」=長崎市坂本1丁目

原爆犠牲者慰霊碑 (長崎市坂本1丁目、1957年8月9日建立)
◆ 未来奪われた医学生ら

長崎大医学部構内の雑木林は、かつて虞美人草(ぐびじんそう)が咲いたことから、「グビロが丘」と呼ばれる。赤れんがの「ポンペ会館」裏から、石段をつづら折りに上ると、草花が風に揺れる平らな頂に着く。その奥に慰霊碑(高さ約五メートル)はそびえ立つ。

医学部の前身、長崎医科大は、原爆投下で建物がほぼ全壊、基礎キャンパスで学生、教授ら五百人余りが亡くなり、付属医院(現付属病院)の患者らを含め犠牲者は千人を超えるといわれる。講堂で授業を受けていた学生たちは座席に並んだまま白骨と化し、それぞれの未来を奪われた。

慰霊碑の素材は、破損を免れた旧大講堂の石柱だ。一九四七年の開学記念日(十一月十二日)に学生や職員が柱を建て、五七年に遺族会が台座を設けて建て直した。八月九日の慰霊祭は七〇年代まで丘の上で開かれ、今でも高齢となった遺族が石段を上る姿がある。

医学部OBで同大大学院教授の相川忠臣さん(62)も原爆で祖父母を亡くした。時折、丘の頂に来て碑を仰ぎ、「長崎が最後の被爆地となりますように」と祈る。