不戦の誓い
 =私の太平洋戦争= 2

「東京大空襲後の焼け野原が忘れられない」と語る伊藤俊一さん=小浜町北本町

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不戦の誓い =私の太平洋戦争= 2 無差別殺りくに怒り
元近衛兵で東京空襲を体験
伊藤俊一さん

2004/08/12 掲載

不戦の誓い
 =私の太平洋戦争= 2

「東京大空襲後の焼け野原が忘れられない」と語る伊藤俊一さん=小浜町北本町

無差別殺りくに怒り
元近衛兵で東京空襲を体験
伊藤俊一さん

一九四二(昭和十七)年一月から終戦まで、皇居の警護や天皇の護衛に当たる近衛師団に所属した。この約四年間は東京空襲とも重なり、その悲惨な記憶が今でも鮮明に残っている。

東京都新宿区戸山の近衛騎兵連隊本部に入隊。近衛兵は全国の兵隊の模範的存在だっただけに、軍律は厳しかった。「気を付け」「回れ右」などの基本動作や乗馬を徹底的にたたき込まれた。慣れない乗馬で股(こ)間の皮がむけてまごついていると、教官から「おまえは元気がない」と一喝。全裸にされ、尻を何度もたたかれたが、それが当然の教育だった。

戦況が不利になると東京はほぼ毎日のように米軍の空襲を受け、近衛兵は都内の消火や警備活動にも従事した。空襲警報や部隊を招集する非常呼集のラッパが鳴り、東京の上空でB29爆撃機やP51戦闘機が爆弾や焼夷(しょうい)弾を何のためらいもなく投下するのが”日常”だった。「これが戦争なのだ」と実感した。

私たちは感情を排し、迅速、的確に行動することだけを心掛けていたが、それでも情が入る場面もあった。近衛師団は「破壊消防団」を結成、空襲時の延焼を防ぐため文字通り建物を「壊す」任務が与えられた。命令とはいえ、立派な家をつぶすのはつらかった。家が壊されるのを家主が涙を浮かべ黙って見ている姿が忘れられない。

四五(昭和二十)年三月十日未明にあった東京大空襲は壮絶だった。敵機来襲を知らせるラッパの音で飛び起き、連隊本部の警備に就くと間もなく、本部を狙った焼夷弾が雨のように降ってきた。無我夢中で消火に当たる中、火の粉が私の軍服に燃え移り必死に消し止めた。気が付くと近くの陸軍戸山学校、陸軍第一病院なども攻撃を受けていた。夜が明けて、外の惨状に目を疑った。新宿から池袋までの山手線沿線は焼け野原。本部近くの防空壕(ごう)には、煙に巻かれて窒息死した多数の遺体が折り重なっていた。

四二年四月の初空襲から敗戦まで、東京は約百三十回の無差別攻撃を受け、死者・負傷者は二十六万人以上、戦災者は三百十万人以上という。罪もない女性や子どもが数多く死んだ。こんな殺りくが許されていいのか、とあらためて怒りを覚える。「戦争は絶対にしてはいけない」との気持ちでいっぱいだ。(小浜)

いとう・しゅんいち 南高小浜町生まれ。小浜尋常高等小、小浜青年学校卒業後、近衛騎兵連隊入隊。戦後、同町農協職員に。定年後、おばま農協代表理事組合長などを歴任。現在、島原雲仙農協理事、町農業委員会会長。同町北本町。83歳。