不戦の誓い
 =私の太平洋戦争= 1

五輪塔に供えた写経を広げ、平和への思いをかみしめる小橋川時雄さん=松浦市御厨町池田免

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不戦の誓い =私の太平洋戦争= 1 平和訴えることが使命
ラバウル潜水艦部隊の生還者
小橋川時雄さん

2004/08/11 掲載

不戦の誓い
 =私の太平洋戦争= 1

五輪塔に供えた写経を広げ、平和への思いをかみしめる小橋川時雄さん=松浦市御厨町池田免

平和訴えることが使命
ラバウル潜水艦部隊の生還者
小橋川時雄さん

太平洋戦争終結から五十九年目の夏。二十一世紀となった今も、悲惨な戦争体験を背負い、さまざまな思いを抱きながら生きる人たちがいる。そんな戦争体験者の声、心の叫びに耳をすませ、「不戦の誓い」を伝える。

生かされた命をどうしたらいいのか―。太平洋戦争で散った戦友。残された自分はどうあるべきかを問い続けた半生。そして今も、自問は続く。

一九三九年六月、佐世保海兵団に入隊した。十七歳。海軍を目指したのは、海にあこがれていたからだ。横須賀海軍工機学校を経て佐世保潜水艦基地隊に配属された。

四三年一月、伊号第180潜水艦の機関兵として南方戦線に参戦、八月の第二次ソロモン海戦に臨んだ。ラバウル港を基地に輸送艦二隻を撃沈したが、舵(かじ)の修理で停泊中、敵機三百の空襲に遭遇。上甲板にいた砲員十二人が爆弾の直撃を受け、死亡した。そばで仲間が死んでも、不思議と涙は出なかった。「今度は自分の番」と、覚悟していたのかもしれない。

潜航不能となった潜水艦。敵に見つからないようおびえながらの航海を経て一週間後、母港の佐世保にたどり着いた。その後、別の潜水艦の乗組員や海軍潜水学校の教員として過ごし、終戦を迎えた。

終戦後、第180潜水艦が、四四年五月二十日に北太平洋で沈没したことを知った。全滅。その後に乗艦した潜水艦もまた、同様の運命をたどった。同じ釜の飯を食った仲間が、生き残れなかったことが、悔やんでも悔やみきれなかった。

生かされた私はどうあるべきか。「戦争に加わった者として、今度は人のために尽くし、生き抜こう」。私なりの答えだった。近所のお年寄りと遊歩道の整備などに汗を流した。亡くなった仲間の供養、お世話になった人たちへの恩返し、そして、生かされた命への感謝の気持ちでもあった。

九八年、仲間の供養の気持ちを込め、私費を投じて近くの寺に五輪塔を建てた。遺骨の代わりに、自分が毎月したためた写経を入れる。死ぬまで続けるつもりだ。

今も世界のどこかで、人が人を殺し合っている。非人道的な行為はなくすべきだ。戦後、日本の復興を支えたのは米国であり、同盟国としての役割はあるだろう。しかし、平和憲法を持つ国として、戦争への加担を拒否する政治力、外交手腕が必要と思う。

戦争体験者として、平和を訴え続けることが、私の使命と感じる。(松浦)

こばしかわ・ときお 沖縄県生まれ。志願兵として1939年6月、佐世保海兵団入隊。第六艦隊第三潜水戦隊の伊号第180潜水艦機関兵時代、ラバウル港で敵機の空襲に遭い、多くの仲間を失う。松浦市御厨町池田免。82歳。