被爆資料は語る
 -62年目の夏- 4

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被爆資料は語る -62年目の夏- 4
廃墟の街から集める

2004/08/05 掲載

被爆資料は語る
 -62年目の夏- 4


廃墟の街から集める

「一緒に遊んでいた友人は原爆の爆風で吹き飛ばされて息絶えた。岩場が盾になったのか、私はほんの一メートル違いで生き残った。奇跡としか言いようがない」

爆心地から約一・五キロ離れた川で水遊びをしていて被爆した山田義春さん(68)=長崎市音無町=。自宅は全壊。畑に出ていた両親と祖父母は助かったが、家の中にいた当時十一歳の姉、七歳と五歳の二人の弟は家の下敷きになって死んだ。

父と祖父が自宅のがれきの中から使える柱などを探し出し住まい用の小屋を建てるまで、一カ月近く防空壕(ごう)で生活。急ごしらえのため屋根には瓦の代わりに畳を使ったが、すぐに雨が染みてきた。

住む家を建て替えるため、父と祖父は廃虚の街を瓦を集めて回った。自宅跡だけでは足りず、遠くまで行き百枚を超える数をそろえた。割れたりして形はバラバラ。高温を浴びて表面が黄色く変色しているものも。

その後、家を改修しても被爆瓦はそのまま利用し続け、隣接する小屋の屋根にも当時の瓦が何十枚か残っている。だが、「焼け跡」など原爆で受けたと思われる傷は次第に風化、ひび割れや汚れが目立ってきた。

近く、使用しなくなった小屋を解体、被爆瓦も一緒に処分される。両親は既にいない。「自分が生きているうちに残したい」と寄贈を申し出た。「原爆は無差別に市民の命を奪っていった。瓦に付いた戦争という愚かな行為の痕跡に、若者が気付いてほしい」