被爆資料は語る
 -61年目の夏- 3

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被爆資料は語る -61年目の夏- 3 水 筒
優しかった兄の形見

2004/08/04 掲載

被爆資料は語る
 -61年目の夏- 3

水 筒
優しかった兄の形見

白と黄の布に大切にくるまれた古びた水筒。持ち主は、西川美代子さん(67)=長崎市大宮町=の五歳上の兄で原爆の犠牲になった谷崎昭治さん=当時(13)=。下宿していた岡町(爆心地から約四百メートル)付近で、原爆投下の翌日、父己ノ作さんが探し出した。

美代子さんの記憶にある昭治さんは「いつもにこにこ。怒るのを見たことがなかった」。一九四五年、西彼杵郡瀬戸町(現在の大瀬戸町)の実家を出て長崎市の県立瓊浦中に入学。「勉強したい」と両親に頼み込んでの進学だった。

父は焼け野原の街を捜し回ったが、兄は見つからなかった。ただ、がれきと化した下宿の下に見覚えのある水筒が転がっていた。原爆が落とされる前日、父が兄を訪ねたときに栓を修理して渡したものだった。連れ帰らなかったことを悔いる父の姿を覚えている。

水筒は、父が失意のうちに長崎から持ち帰った人骨と一緒に骨つぼに入れて墓に納めた。兄の五十回忌を終えたころから「このままやったら腐れてなくなってしまう」ときょうだいで話し合い、墓から出した。水筒をくるんでいた白い布は変色していたが本体は思いのほか状態が良く、二〇〇二年に寄贈した。

美代子さんは毎年、瓊浦中同窓生が開く慰霊祭に参加する。「生きてたらこんなおじさんになっているのね」。昭治さんの同級生を見ながら、優しかった兄に今年も語り掛ける。