被爆資料は語る
 -59年目の夏- 1

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被爆資料は語る -59年目の夏- 1 コンクリート片
半世紀以上も体内に

2004/08/02 掲載

被爆資料は語る
 -59年目の夏- 1

コンクリート片
半世紀以上も体内に

一万点を超す被爆資料を収蔵している長崎原爆資料館。原爆投下から五十九年になる今でも、家族を奪われた遺族らが核兵器廃絶への願いを込め、あの日の「証人」を寄せてくる。形見として大切に保管していた遺品や爆風と熱線のすさまじさを物語る資料に込められた思いを寄贈者に語ってもらった。

立川裕子さん(73)=長崎市片淵四丁目=は県立高等女学校三年の時、学徒動員先の三菱兵器大橋工場(爆心地から一・一キロ)で被爆。写真のコンクリート片は爆風で下敷きになった建物の壁の一部だった。

大きさ約一・三センチの乳白色。半世紀以上、立川さんの腰の背骨近くに刺さったままで、痛みが走るたび、頭から真っ赤な血を流しながら必死で逃げた「あの日」がよみがえっていた。

原爆に遭った翌日、救援列車に乗せられ命からがら着いたのは、長崎から遠く離れた川棚の救護所。全身に無数のガラス片が突き刺さっていた。医師が麻酔をしないままピンセットで取り除いてくれた。左腕だけで約五十カ所あった。

背骨近くにゴロゴロした違和感が残った。「手術すると歩けなくなる」と医師に告げられ、痛みに耐え続けた。

あおむけで眠れなくなる日が増えた一九九六年五月、意を決して摘出手術を受けた。ガラス片だと信じていた「塊」は、コンクリート片だった。

「戦争と原爆は、人間の心と体にずっと傷を残す。子どもや孫たちの時代、私のような悲しい思いをしてほしくない」。そう思い、コンクリート片は同年六月、長崎原爆資料館に寄贈した。

立川さんの左肩には、今も四つのガラス片が残る。「死ぬまで付き合わないといけないようです」。傷がうずくたびによぎる悲しい記憶とともに。

長崎新聞社は来年の被爆六十周年に向け長崎、広島両市の原爆資料館と国立追悼平和祈念館の四施設と合同で、被爆関連資料、遺影、体験記の提供を呼び掛けている。問い合わせは長崎新聞社(電095・844・2114)、長崎原爆資料館(電095・844・1231)、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(電095・814・0055)、NHK長崎放送局(電095・821・1115)。