暮らしの中の原爆遺構 3

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暮らしの中の原爆遺構 3 山口酢醸造元・裂けた梁 =長崎市新大工町・爆心地から3.0キロ=
爆風耐えた“生き証人”

2000/08/06 掲載

暮らしの中の原爆遺構 3

山口酢醸造元・裂けた梁 =長崎市新大工町・爆心地から3.0キロ=
爆風耐えた“生き証人”

諏訪神社方面から新大工町商店街に入り、約五十メートル歩くと左手に山口酢醸造元がある。一九三四年に建てられた二階建て店舗兼住居の側面はれんが造り。表の売り場を抜けて、裏の蔵に入ると酢のにおいが漂ってくる。その二階には原爆の爆風の影響で裂けたままの梁(はり)が残っている。
四五年八月九日。ここに住んでいた山口タズ子さん(72)は当時十七歳。亡くなった父親は朝鮮半島に出征中、弟の宝一郎さん(68)(現店主)は佐賀県の父の実家に疎開していたため、母親の故シヅ子さんと暮らしていた。二階には長崎医科大(現・長崎大学医学部)の学生四、五人が下宿していた。

タズ子さんはこの日、女学校の友人らと飯香浦方面にナシ狩りに出掛けていた。知人の家でおしゃべりをしていたら、突然目の前のふすまが吹き飛んだ。慌てて山道を通って店に戻ると、窓ガラスはほとんど吹き飛んで割れていた。母のシヅ子さんはたまたま近くに外出していて無事だった。大学生も全員出払っていたが、二人が大学で被爆して亡くなったという。

裂けた梁は角材で固定したがそのまま残している。店も、二十年前、隣にビルが建ったときの測量で、爆風が吹いた方向に五センチ傾いていることが分かった。宝一郎さんは「店の傾きはほとんど分からないし、毎日の生活に追われてそういうことを気にしなくなる。被爆の事実も時代が変わると人々の意識から薄れていっているような気がする」と寂しそうに話していた。