原水禁の調査団メンバーと北朝鮮の関係者ら。

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非核の願い 国境を超え 被爆者・川野浩一の軌跡【4】 国際交流 加害と被害に向き合う

2018/07/31 掲載

原水禁の調査団メンバーと北朝鮮の関係者ら。

国際交流 加害と被害に向き合う

 2000年4月、米ニューヨークの繁華街にプラカードを掲げた川野浩一の姿があった。原爆の非人道性を訴えるため原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が開いていた「原爆展」の会場があるビルの前で、入場を呼び掛けていた。
 ふと大柄な男性が川野の前で立ち止まった。男性は川野を指さしながら迫って言った。「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」
 1941年12月、旧日本軍が米軍の軍事拠点だったハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争の戦端を開いた。この攻撃で当時、約2400人の米国人が死亡。リメンバー・パールハーバーは、開戦時に奇襲攻撃を仕掛けた日本に対し、敵意と報復を表す合言葉だ。
 「それまでは被爆者の被害面だけを訴えていたが、日本の加害責任についても強く意識するようになった」。川野にとって忘れ難い体験となった。
 川野は80年代後半から原水禁や連合の代表メンバーの一員として海外での原爆展開催などに携わるようになったが、“被爆者の論理”が通用せず「がっくりきた」ケースは一度ならずあった。
 1歳まで過ごした北朝鮮の地を、その後初めて踏んだのは2007年10月。在外被爆者の支援に力を入れる原水禁の現地実態調査に同行した。
 約10人の“被爆者”と面会し健康状態を尋ねると、がんなどで入退院を繰り返している人もいた。だが、日本との国交がないこともあり、被爆者健康手帳などを取得するのに必要な証明や証言を探し出すことが厳しい現状を知った。自分と同じ被爆者でありながら、補償を受けられない現地の人々に、川野は「申し訳なさ」を感じたという。
 北朝鮮政府関係者と面会した際は、歓迎を受ける一方「日本は北朝鮮を植民地としたのに謝罪も賠償もない」と批判を受けた。国際社会で直面した相互理解へのハードルはここにも現れた。
     ◇
 「いかなる核実験、核兵器保有も許さない」-。
 昨年9月5日、北朝鮮が6回目の核実験を強行したことに反発し、川野は被爆者や市民らとともに長崎市の平和公園で抗議の座り込みをし、怒りの声を上げた。
 川野は、度重なる北朝鮮の核実験に対して長崎の被爆者5団体などとともに抗議行動の先頭に立ってきた。それは北朝鮮の被爆者支援と矛盾する動きではない。一方的に核廃絶を求めるのではなく、歴史や価値観が違う他国の人々と対話を重ねて信頼醸成を図る中で非核化を目指す基本姿勢の表れと言える。
 「日本は確かに朝鮮を植民地にしていた時代があった。だが、北朝鮮の被爆者支援は日朝交流の糸口となるのではないか」
 北朝鮮に生まれ、長崎で原爆に遭った川野。加害と被害の歴史に向き合いながら高いハードルを乗り越えようとしている。