北朝鮮にいたころの写真。右端の女性が川野さんの母親、抱かれた赤ん坊が1歳の頃の川野さん=1941年正月ごろ、北朝鮮の平安北道(本人提供)

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非核の願い 国境を超え 被爆者・川野浩一の軌跡【1】 出生の地 自分は「加害者」の子か 北朝鮮で抗日取り締まった父

2018/07/31 掲載

北朝鮮にいたころの写真。右端の女性が川野さんの母親、抱かれた赤ん坊が1歳の頃の川野さん=1941年正月ごろ、北朝鮮の平安北道(本人提供)

出生の地 自分は「加害者」の子か 北朝鮮で抗日取り締まった父

 
 「期待外れだ」
 6月12日にシンガポールであった史上初の米朝首脳会談。西彼長与町の自宅で、テレビが伝える会談の模様を厳しい表情で見詰めていた川野浩一(78)は、吐き捨てるように言った。
 トランプ大統領と金正恩朝(キムジョンウン)鮮労働党委員長が「朝鮮半島の完全非核化」を目指すことで合意し、県内の多くの被爆者から歓迎と期待の声が上がった。そんな中、長崎の被爆者五団体の一つ、県平和運動センター被爆連議長を務める川野の反応は際立って厳しかった。「非核化の具体的なプロセスにまったく触れていない。問題の先送りだ」

 川野は、北朝鮮に浅からぬ縁がある。
 1940年、現在の北朝鮮の平安北道で生まれた。父親はもともと長崎市内で建材販売店を営んでいたが「昭和恐慌」で借金を背負い、日本の植民地だった朝鮮半島で一旗揚げるため移住。現地の警察官となり、朝鮮人ら抗日ゲリラの取り締まり部隊にも参加した。
 41年9月、川野は父親の徴兵に伴い一家で帰国し、長崎市本紙屋町(現麹屋町)にある母方の両親の家に身を寄せた。磨屋国民学校(現市立諏訪小)で低学年のころ、同級生に何かの拍子に朝鮮生まれだと明かした。当時、朝鮮人は日本人からの差別や侮蔑にさらされていた。身の上話は瞬く間にクラスに広がり「朝鮮人だ」と言われたこともあった。「朝鮮も日本の一部だと思っていたので、なぜ悪く言われないといけないのか分からず悔しかった」
 北朝鮮にいたのは1歳までで、現地の記憶はない。ただ、結婚して30歳を過ぎたころ、父親から北朝鮮時代の経験を断片的に聞き及んだ。
 ある日、父親が酒に酔って「冬の朝鮮は川が凍って、敵がソリで来るから大変だった」「電信柱に首がよくぶら下がっていた」などと口にした。
 さらにその後、母親が北朝鮮から引き揚げた後、朝鮮半島からの「お土産」として、軍が朝鮮人を殺害している様子を写したブロマイドなどを近所に配って回っていたことも知った。だが日本が敗戦を迎えると、母親は父親が戦犯として連合国から処罰されないか不安になり、全て回収して回ったという。
 父親が、実際に朝鮮人の殺害に加担したかどうかは恐くて聞けなかった。だが、ひょっとしたら朝鮮人にとっての「加害者」だったのではないか。そして自分はその子どもなのだ-。そんな複雑な思いが頭から離れなくなった。(文中敬称略)
 精力的な行動と果敢な発言で被爆者運動をけん引するリーダーの一人、川野さん。被爆者としての歩みをたどりながら、出生地である北朝鮮の非核化に対する思いや核兵器廃絶運動への取り組みを追った。