新興善国民学校救護所(枡屋富一撮影、長崎原爆資料館所蔵)

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戦後73年・被爆73年 表現者たち 鎮魂のうた 降旗良知医師の記憶〈3〉 派遣救護隊 死傷者放置 目覆う状況

2018/08/08 掲載

新興善国民学校救護所(枡屋富一撮影、長崎原爆資料館所蔵)

派遣救護隊 死傷者放置 目覆う状況

 針尾海兵団の第1次救護隊は8月9日の夜、急きょ長崎に派遣され、翌10日から救護活動に当たった。同隊が1945年9月12日付でまとめた報告書によると、到着したときには、死傷者は、まだほとんど未処置のまま放置され、目を覆うような状況だった。そのため、救護活動は、とりあえず患者の収容に重点を置くこととなった。負傷者を救出し、担架で市内数カ所に収容。炎天下での作業は困難を極めた。放置したまま1週間に至るケースもあった。
 その後、軍医科見習尉(い)官の降旗(ふりはた)良知(りょうち)ら第2次救護隊が交代し、引き継いだ。隊の人数は、第1次が約250人、第2次が約240人。それぞれ、軍医科士官(見習尉官を含む)、衛生科士官、衛生科下士官、衛生兵、主計兵などの編成だった。針尾海兵団のほかに佐世保海軍病院救護隊も派遣されていた。
 海軍の救護隊の本部は、爆心地から約3キロの新興善国民学校にあった。各教室にも体育館にも、負傷者がすし詰め状態で収容されていた。
 降旗の記憶によれば、到着の翌朝から救護に当たった。各地に分散している負傷者の治療、防空壕(ごう)などに寝ている負傷者の収容と治療、そして、本部に収容されている人の治療をした。
 到着から3日目くらいに、爆心地に近い長崎医科大へ行った。全く人けがなく、正面玄関の手前に、むしろが敷かれ、その上にさらにむしろがかぶせられていた。通り過ぎようとすると、髪の毛のようなものが見えたので、むしろを上げてみると、うつぶせになった若い女性の全裸の遺体だった。亡くなってからさほど時間はたっていないと思われたが、生存者を捜して収容するという任務のため、顔を見ることもなく通り過ぎた。
 
 坂道の正門入り口に屍あり むしろにおほはれし裸女(らじょ)なりしかな
 外傷も 熱傷も又なき人の 数日以内の突然死なるべし
 校庭は死者の山なり 次々と 運び来(こ)らるゝ死者の山なり
   (歌集「鎮魂」より)