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戦争の記憶2026ナガサキ 迫る米軍戦闘機、死を覚悟…朝鮮から家族で引き揚げ

2026/09/07 掲載

 佐世保市皆瀬町の元中学教諭、武邊かをるさん(93)は1933年、日本の植民地だった朝鮮半島の中西部・海州(へじゅ)で生まれた。太平洋戦争末期には米軍機の機銃に狙われ、激変する現地の治安と過酷な引き揚げを経験した。

 父は京城(現ソウル)にあった朝鮮総督府の役人で農業の研究をしていた。各地の農場へ転勤が多く、日本が米英両国に宣戦布告した41年12月8日、平壌の自宅で大本営発表を伝える臨時ニュースを聞いた。

 小学校では爆撃機の音を聞き分ける訓練を受けた。戦争末期の45年、6年生の時だった。警戒警報が鳴り、学校から家まで走って帰る途中、米軍のグラマン戦闘機の「ブーン」という重苦しい音が聞こえた。咄嗟(とっさ)に溝に身を隠して顔を上げると、戦闘機が間近に迫り、操縦士の顔が見えた。「お母さん、私ここで死ぬ」と死を覚悟した。

 同年4月、女学院に入学したが、ヘチマ襟の制服を着たのは1カ月だけ。すぐに日本陸軍の飛行場へ学徒動員された。父が「女学生まで動員するとは、もう日本の行く末は見えている」と、母に漏らすのを耳にした。飛行場での任務は航空機を隠すための擬装網(偽装網)編みだった。茶や緑色のペンキを混ぜた荒縄を編む作業は過酷で手から血を流し、「痛い、痛い」と泣きながら作業をした。

 8月15日正午、敗戦を告げる玉音放送が流れると、上級将校たちが涙を流した。隊長の1人が「よく頑張ってくれたが、日本は負けた」と告げると、周囲から「まだ負けていない」「飛行機はまだたくさんある」と泣き叫ぶ声が上がった。その姿を見て「本当に負けたんだ」と実感した。

 現地の人々は植民地支配から解放され、自信に満ちた姿へと変わった。あちこちから「マンセー(万歳)」と叫ぶ声が響いた。現地の人々を手荒く扱っていた憲兵や警察官の末路は悲惨だった。山中に引きずり込まれて命を奪われたり、拷問を受けて半死半生の状態で雨戸に乗せられ、自宅前に投げ捨てられたりした人もいたと聞いた。

 同年11月上旬、リュックサック一つを背負い、釜山から家族で引き揚げ船に乗り込んだ。船内は人で埋め尽くされていた。真っ暗な玄界灘を渡る際、船員から「サメがいるから、落ちたら引きずり込まれるぞ」と言われ、恐怖で手すりをぎゅっと握りしめた。その時の手の感覚は、今も残っている。博多港に到着後、収容所で2日間を過ごし、しばらくは叔父の住む佐賀県嬉野町(現嬉野市)に身を寄せた。

 その後、父が進駐軍の通訳になり、佐世保市に移住した。中心部は焼け野原で亀山八幡宮は鳥居だけが残っていた。高校を卒業後、北松や佐世保市の中学校で体育や国語の教師を務めた。戦争体験者として、子どもたちには「二度と戦争をしてはいけない。平和でなければスポーツすらできない」と伝え続けた。その思いは今も変わらない。