米艦船のエンジン部品を保守点検する日本人従業員。従業員の雇用は国際情勢や米国の政策に左右される=米海軍佐世保基地

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佐世保と安全保障 エンプラ事件から半世紀② 基地従業員 自己矛盾抱え葛藤

2018/01/16 掲載

米艦船のエンジン部品を保守点検する日本人従業員。従業員の雇用は国際情勢や米国の政策に左右される=米海軍佐世保基地

基地従業員 自己矛盾抱え葛藤

 「昼間は基地の中の警備、夕方からは労働組合で寄港反対の運動をしていました。何だか矛盾したようですが…」
 米海軍佐世保基地の従業員でつくる「全駐留軍労働組合長崎地区本部」の元委員長、岡本昭三さん(89)は複雑な心境で「エンプラ事件」を振り返った。
 1968年の米原子力空母エンタープライズ寄港当時、基地の警備部門で働きながら、労組で職場代表を務めていた。基地の周囲は警察隊が取り囲んでいたため、デモ隊と対峙(たいじ)することはなかった。反対運動でも前面に出ず、主に他の労組や学生を後方で支援した。だが学生らの運動は基地反対闘争の流れをくんだ側面があり、自らの職場を否定する矛盾をはらんでいた。
 基地で働き始めたのは終戦から2年後の47年。生きるためだった。「独立国家の日本に外国の部隊がそう長くいるわけはない。基地はいつかなくなる」。そう整理を付けていた。50年に朝鮮戦争が勃発。佐世保は最前線の補給拠点となり、特需で経済が息を吹き返す。基地従業員もピーク時には8千人近くにまで膨れ上がった。
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 佐世保基地はその後も国際情勢や米国の政策によって姿を変えるが、最も色濃く表れたのは76年の弾薬廠(しょう)への格下げだった。ベトナム戦争の泥沼化で米国経済が疲弊。海外基地の縮小方針が示されていた。
 元自民党市議の梯正和さん(81)は「基地返還への期待の一方で、経済的に基地に依存してきたため、不安も大きかった」と語る。離職者問題は深刻だった。労組は「雇用を守れ」と主張したが梯さんは「『基地をなくせ』と運動していたのに」とその姿に批判的な目を向けた。毎週金曜になると大量解雇の通告があったことから“魔の金曜日”と呼ばれ、78年には従業員数は約660人にまで減った。
 東西冷戦の再燃などを背景に80年に佐世保基地が復活。佐世保市は基地との共存・共生を基本姿勢に掲げつつ、施設などの移転・集約、返還による商港機能とのすみ分けを国に求める。佐世保基地では不安定な雇用体系ながらも、今も日本人約1700人が働く。
 「本来なら基地は要らない。だが今の若い人たちは基地で働くことを誇りに思う人もいるだろうし、佐世保の経済に貢献しているのも確かだ」。岡本さんが抱える葛藤は、今の佐世保の姿とも重なる。