三城の上空を飛ぶ米軍機を描き、絵を手に説明する寺﨑さん=大村市内の自宅
元大村市立玖島中校長の寺﨑喜久雄さん(89)は戦時中、日本の植民地だった朝鮮で生まれ、日本への引き揚げを経験した。「思い出すのが嫌だった」というあの頃の記憶。脳裏には「命の危険を感じた」日々が焼きついている。
■敗戦で一変
1936(昭和11)年、現在の韓国南西部・光州で育った。「文化的な都市だった」という。
父は電気会社に勤め、一緒に変電所を散歩したり、百貨店でおもちゃを買ってくれたりした。母方の祖父は郊外で医者をしていた。夏休みは祖父宅で過ごし、朝鮮の人の治療や手術に励む姿を間近で見ていた。
生活が一変したのは9歳の夏、45年8月15日。昼に天皇陛下の詔勅(しょうちょく)があると聞き、ラジオの前に座った。言葉が難しく何を言っているのか分からずにいると、父が「負けた」と吐き捨てるように言った。海外事情に明るく、以前から日本が勝つと思っていなかったという父に、母は「絶対に人前で言わないで」とくぎを刺した。
軍隊も警官も早々に日本へ引き揚げる中、一家は帰るすべがなかった。大陸に憧れを抱いていた父は光州に骨を埋めるようなことを言い、母は「子どもたちはどうするのか」と反論。朝鮮語を話せなければ生きていけない、と姉は敗戦翌日から一生懸命勉強した。
通りを堂々と歩いていた日本人は息をひそめて暮らした。現地の人からはつばを吐かれ、夜は嫌がらせのように家の周りをうろつかれた。暴力は振るわれなかったが命の危険を感じた。
■祖父の最期
45年秋、南部の釜山を目指し、日本行きの船が来港したタイミングで飛び乗った。荷物はリュックサック一つ分だけ。祖父とその家族は別の船に乗り、博多で合流することになった。
一晩で着いたものの、空襲の被害に遭った福岡の町は「何もなかった」。天神からは海が見えるほどだった。やっと見つけた1軒の屋台。サトイモとカボチャの葉っぱが入ったみそ汁だけが出てきた。
がくぜんとする父を支え、母は気丈に生活の立て直しを模索した。祖父と合流できないまま福岡を去り、45年11月末、母の知人を頼って大村の杭出津に住むようになった。
三城国民学校(現在の大村市立三城小)に通い始めた。教科書に墨を塗り、校庭で燃やした。毎日のように上空を米軍機が飛び、町は銃剣を持った米兵が闊歩(かっぽ)していた。
しばらくして、祖父のその後が分かった。祖父たちが乗った引き揚げ船は、機雷に触れて日本へたどり着く前に沈没したという。
日本と朝鮮をへだてる海の上。祖父は運命と受け入れたのかもしれない。自分と家族をロープでしばり、沈みゆく船で静かにお経を唱えていた-。
祖父と同じ船から生還した人が聞かせてくれた祖父の最期。今なお胸に重くのしかかる。
■“現役画家”
戦後、美術科教諭として多くの生徒を育て、退職後も精力的に活動。6月には絵画の個展を大村市内で開いた。大村や海外の景色を鮮やかに描いた作品が、苦労の末、平和な時代に羽ばたいた歩みを伝えている。
自宅のアルバムには白黒写真が何枚も保管されていた。光州で撮影した子ども時代の姿や家族の写真。リュックサック一つしか持ち込めなかった引き揚げ船で、母がどうしても持ち帰りたかったのは家族の思い出だった。
「先に死んだ人たちの分も、いっぱいかついで生きていこう」。人生は毎日意味があるように生きる-。今月90歳になる“現役画家”のモットーだ。
