「航空殉難九勇士之墓」と山本さん。そばに副碑と碑文がある=雲仙市千々石町

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戦争の記憶2026ナガサキ 雲仙・千々石の航空殉難九勇士 陸軍機墜落で全員殉職…住民ら墓を建て供養

2026/05/18 掲載

「航空殉難九勇士之墓」と山本さん。そばに副碑と碑文がある=雲仙市千々石町

 「日本棚田百選」に選ばれた「清水棚田」が広がる雲仙市千々石町岳地区。のどかな山村の共同墓地の一角に、「航空殉難九勇士之墓」はある。1944年2月2日、南方に向かっていた旧日本陸軍機が雲仙岳中腹に墜落し、搭乗していた9人全員が殉職した事故。戦争の悲劇を静かに語る墓や副碑などは戦後、住民らによって建立された。亡き父親が建立に奔走した男性は「これからも忘れないでほしい。戦争は愚かだ」と訴えている。

 合併前の同町郷土誌や、9人の五十回忌供養記念冊子などによると、陸軍機には会津若松第29連隊長、大島護大佐ら9人が乗り込み、天皇から授与された軍旗をマレー半島まで運ぶ任務の途中だった。南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島での激戦で、日本軍は大敗して撤退。全滅した同連隊はその後、再編されたが、軍旗がないままマレー半島で警備に就いていた。

 44年2月1日、陸軍機は東京立川飛行場を出発後、福岡で1泊した。2日午前9時10分、雁ノ巣飛行場をたったが同10時5分、荒天でコントロールを失い雲仙岳中腹に墜落。住民らが乗組員の捜索、救出に当たったが、全員が死亡した。軍旗は燃えていなかったという。

 「事故の日は寒く、吹雪やったそうです」。地元の農業、山本武弘さん(84)は当時2歳。母親の鈴柄さん(故人)から、遺体を運び出した様子を幾度も聞いた。看護師の経験があった鈴柄さんは乗組員らの腕や脚などを、人の形になるように包帯でつなぎ合わせたという。

 当時、軍旗は天皇の分身としてあがめられていた。「『お国のため命懸けで任務に当たった人たちの体を、ばらばらになったまま燃やすのは申し訳ない』と考えたのでは」。山本さんは当時の人々の思いを代弁した。

 家の納屋に、10メートルほどの太く長いロープが2、3本あったのを覚えている。墜落して散らばった軍機の残骸を、そのロープを使って牛に引かせ、4キロほど離れた集落まで運んだと、戦後、両親から聞いた。エンジン部分は特に重かったそうだ。立ち込める霧の中、残雪をかき分けて谷の両側に散った遺体や残骸を集めるのに、1週間ほどかかったという。

 住民らは、丁寧につなぎ合わせた遺体を集落の火葬場で焼いて弔った。9人を「航空殉難九勇士」とたたえ、終戦後の47年に火葬場近くの共同墓地に墓を建てて供養した。その後、40年近くがたったころ、雲仙史探究会代表だった西久海さん(故人)が事故について調査。風化を危惧して住民らに呼びかけ、90年に「航空殉難九勇士之碑奉賛会」を立ち上げた。

 会は、9人の氏名を御影石に彫った副碑や事故内容を記した碑文を墓の横に建立。91年2月2日、除幕式を開いた。碑文には、「不運にも散華された勇士の名を刻み鎮魂と恒久平和への祈りをこめ建立」とある。

 山本さんは30年以上前、事故を知る人の案内で現場を訪れた。国見町側から雲仙岳に向かう吹越トンネル付近の谷間。「険しい山道。こんな山深くに落ちた遺体や機体を人や牛の力で運んだのか」と驚いた。

 地元の高齢者は今も墓に花などを手向けるが、終戦から81年がたち、当時の記憶は地域から遠ざかる。山本さんは「時間とともに忘れ去られるのは仕方がないが、残念でもある。墓や碑文を見て折に触れて思い出し、戦争のない世の中にしてほしい」と願いを込める。

 西さんの長男で、同探究会代表の久幸さん(68)は、父親が調べた資料を大切に保管している。「戦争は愚かだ。こんな惨劇が二度と起こらないように、当時の記録を残しておきたい」と話した。