生月砲台の観測所跡を案内する田中会長=平戸市生月町

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戦争の記憶2026ナガサキ 生月島に埋もれた遺構…進む風化「後世に伝えなければ」 戦跡研究会が現地調査

2026/05/04 掲載

生月砲台の観測所跡を案内する田中会長=平戸市生月町

 平戸市の市民グループ「平戸・生月戦跡研究会」(田中まきこ会長、約20人)は、旧日本軍の資料や住民の証言などを基に市内の戦争遺構を調査している。これまで生月島各地で砲台跡など九つの遺構を確認し、軍事拠点としての全容に迫っている。田中会長の案内で遺構を訪れた。

 木々がうっそうと茂る生月町御崎地区の通称ミンチマ山。草をかき分け山頂付近に着くと、鉄筋コンクリート造りの廃虚が現れた。「ここは陸軍生月砲台の観測所で海峡をにらんだ防衛の要でした」。田中会長の声が響く。
 建物は3層構造で、高さ約10メートル。敵機から見つかりにくいように屋根はセメントで固めた石で偽装され、入り口は光の反射を防ぐ黒いコールタールが塗られている。1階の4部屋は分厚いコンクリートの壁で仕切られ、「砲具置場」「弾薬置場」の文字が軍事施設であることを裏付ける。同会によると、中2階と2階は敵艦を監視したり、砲撃距離を測定したりするスペースだったとみられる。壁に残る無数の傷は、米軍が施設を爆破しようとした痕跡だと考えられている。

◆実戦で使われず
 同会が国立公文書館アジア歴史資料センターの資料などから得た情報によると、生月砲台は1937(昭和12)年に着工し、翌年完成。最大射程約26キロの九六式15センチカノン砲が2門配備されていた。観測所には、当時最先端の計算機「八八式海岸射撃具」の改良型が備えられ、敵艦を高い精度で砲撃することが可能だったが、実戦で火を噴くことはなかった。主力戦力が大型艦船から航空機に代わったためである。
 観測所近くの茂みには、コンクリートの壁に囲まれた八角形の露天砲座跡がひっそりと残る。直径約2メートルで内部は土に埋もれているが、奥には人が入れるほどの空間が広がっている。
 少し離れた崖には横幅約2メートルの穴が掘られ、コンクリートで頑丈に固められていた。田中会長は「大砲を隠して攻撃する穹窖(きゅうこう)砲台の跡。太平洋戦争で空襲が激化すると、露天砲座から移行した」と説明する。今は穴の中央をふさぐように大樹が育ち、長い歳月を物語る。穴の奥は地下壕(ごう)とつながっていると推測され、同会は調査を検討している。

◆大陸進出の歴史
 日本の西端の生月島に砲台が造られた背景には、大陸進出の歴史がある。兵員や物資を運ぶ航路を守るため、壱岐、平戸、福岡には砲台が設置された。これらは総じて壱岐要塞(さい)と呼ばれ、生月砲台も構成施設として重要な役割を担い、陸海軍が緊密に連携して海域を監視したとされる。
 同会は生月砲台以外にも、海軍の大碆鼻(おおばえばな)砲台、高性能レーダーを備えた生月島電探見張所(踊瀬(おどりせ)地区)などの遺構を確認。しかし、島民のほとんどが存在を知らず、公的調査もなかったという。
 同会が調査を始めたのは2020年ごろ。田中会長は「最初はカッパ伝承の痕跡や隠れキリシタンのほこらを探しに山に入っていた」と話す。その際に偶然、巨大な地下壕に通じる横穴を見つけたのが遺構を探るきっかけとなった。以来、同資料センターや米国立公文書館の公開資料、航空レーザー測量を用いて地形を把握する「全国Q地図」などを活用、現地調査を重ね施設を特定してきた。90代以上の島民への聞き取りも実施。「子どものころ、海岸から御崎地区まで玉砂利を運ばされた」という貴重な証言も得られた。

◆学校で平和学習
 同会は調査結果を基に地元の小中学校で平和学習の授業をしている。子どもたちを遺構へ案内し、現地の様子を見てもらうこともある。田中会長は「遺構を見つけて後世に伝えなければ、そこで戦争に向き合った兵士の存在も知られないまま時が過ぎる」と語る。
 生月砲台の観測所跡はコンクリートの劣化が激しく天井には大きなひび割れもある。同会はこうした状況を憂い、行政による保全に期待する。遺構の風化が進む中で、島の記憶を掘り起こす同会の歩みは、平和への道しるべとして続いていく。