絵画「私が2人」を持つ荒木さん=島原市有明町

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戦争の記憶2026ナガサキ 荒木万勝さん(95)=島原市有明町= 平和への願い込め絵筆…原爆をテーマに51点制作

2026/04/20 掲載

絵画「私が2人」を持つ荒木さん=島原市有明町

 「すぐに死んでも不幸、生き残っても不幸。それが戦争だということを知ってもらいたい」-。のどかな景色が広がる島原市有明町の自宅で荒木万勝(かずよし)(95)が力を込めた。手には自作の水彩画。そこには少女と高齢の女性が描かれている。原爆や戦争の理不尽さ、悲惨さを訴え、平和への願いを込めた絵のタイトルは「私が2人」-。

 荒木は1930年、旧満州(現在の中国東北部)で、炭鉱の経営に携わっていた父萬蔵、旧北串山村(現在の雲仙市小浜町)出身だった母ツヨの間に4人きょうだいの次男として生まれた。

  苦しい生活

 太平洋戦争が始まる前年の40年、兄の進学に伴い、荒木ら家族は萬蔵を残して日本に。満州では豊かな暮らしを送っていた一家だったが、戦況の悪化に伴い、父からの仕送りは途絶えた。
 45年4月、荒木は旧制鎮西学院中(現在の長崎市宝栄町)に入学。生活が苦しい中、母は持ち帰った貴金属類を売って学費を工面してくれた。
 学校には母方の叔父宅(銭座町)から通った。叔父一家と隣の川原家は、妻同士が同じ五島出身だったこともあり、家族ぐるみの付き合いだった。
 川原家には当時、8歳になるまり子がいた。長い髪のお下げが似合うかわいい女の子で、荒木は休みの日に「お兄ちゃん、遊んで」とよくせがまれた。剣道の素振りをしていると、竹刀で打つまねをしてきたり、手まりで遊んだり。「まり子ちゃんは、まりも剣道も上手」とほめると喜んでくれた。
 だが、そうした生活も長くは続かなかった。荒木は腸チフスを患い、その年の夏を迎えるころから母方の実家での療養を余儀なくされた。それが運命を左右することになる。8月9日、1発の原爆が投下。叔父宅があった長崎の上空に赤みがかった灰色の巨大なきのこ雲が湧き上がるのを、荒木は橘湾越しに目撃した。言葉を失った。

  記憶を封印

 15日に玉音放送を聞き、長崎に戻ったのは8月末から9月上旬だったろうか。町は変わり果て、爆心地から約1・5キロの場所にあった叔父宅周辺は一面の焼け野原と化していた。5人いた叔父家族のうち、生き延びたのは叔父と3歳の娘だけ。その女の子も叔父におんぶされ、何とか北串山にたどり着いたものの間もなく亡くなった。よく遊んだ10歳の長男は家の下敷きになって生きたまま猛火に包まれたと聞き、涙が止まらなかった。そして、川原家の姿もそこにはなかった。
 被災者が建て始めたバラック小屋を横目に学校に向かうと、爆心地から約0・5キロの至近距離にあった鉄筋コンクリートの校舎は、上階が完全に崩れていた。生き残った級友と、校庭で栽培されていたサツマイモを食べて空腹をしのいだ。当時、人体への放射線の影響についてはほとんど知らなかった。だが、体調を崩し、受診した医師から「急性白血病の疑いがある」と言われて以来、原爆に関する記憶を封印した。
 まり子の消息については、しばらくして叔父から「母親と五島に帰った」と聞いた。慣れない畑仕事に苦しみ、母が亡くなると「何で私を残して死んじゃったの」と泣いたとも。やがてその叔父も他界し、まり子の手がかりはなくなった。
 戦後は働きながら大学の通信部で教員免許を取得するなどし、公立小教諭となった。教職の傍ら、幼い頃から得意だった絵画を趣味にし、展覧会に出品した。

  「私が2人」

 原爆をテーマに描くようになったのは、生き残った級友がほとんど亡くなった90歳になってから。「後世に戦争の悲惨さを伝えていかなければ」と思い立ち、当時の記憶や記録写真などを基に、これまで計51点を制作。その1枚が今年3月に仕上げた「私が2人」だ。
 絵では、8歳当時のまり子と、生きていたらこんな姿になっているだろうかと想像しながら描いた今のまり子が向き合っている。背景は、81年前に荒木が見た下宿周辺の荒廃した風景。原爆の犠牲者の遺骨が散らばる原子野で向き合う2人のまり子の姿は、人々の営みを消し去った原爆、戦争の残酷さを表現している。
 ロシアのウクライナ侵攻、米国やイスラエルによるイラン攻撃など、今も戦禍が絶えない。「武力での仕返しの行き着く先が原爆であり、人類の滅亡」。荒木は81年前の悲しみが繰り返されることのないよう、絵筆に平和への願いを込め祈っている。
=文中敬称略=