深々と掘られた防空壕跡。「昔はこの一帯に竹はなく畑だった」と話す山下さん=五島市黄島町

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戦争の記憶2026ナガサキ 五島・黄島、竹やぶ覆う防空壕…時代の傷跡「やがて消える」 標的の島、刻まれた住民の恐怖

2026/04/10 掲載

深々と掘られた防空壕跡。「昔はこの一帯に竹はなく畑だった」と話す山下さん=五島市黄島町

 長崎港から五島灘を抜け、中国・上海へと続いたかつての主航路。その要衝だった五島市の二次離島、黄島は、昭和の戦渦において、航海の安全を守る灯台が「標的」にされた島だ。今も島内に残る防空壕(ごう)の跡は、本土防衛の最前線に立たされた島民の恐怖を無言で伝えている。
■航路の目印
 「ここが、防空壕の跡です」。黄島町町内会長で延命院住職の山下雅真さん(66)は、竹やぶの先を指さした。竹が茂る赤土の側面に、ぽっかりと黒い口を開けた穴がある。戦時中、島の東側に掘り進められた防空壕の一つだ。確認できるだけでも、こうした穴が10カ所ほど点在している。
 福江港から南南東沖約14キロに位置する約1・4平方キロの小さな島。近海は好漁場で、かつてはカツオ漁業や捕鯨で栄えた。市の記録に残る数字では、1925(大正14)年には850人が暮らしていた。
 「五島黄島郷土誌」によると、34年に設置された黄島灯台は、直径1メートルものイギリス製巨大プリズムレンズを備え、五島灘を航行する船舶にとって不可欠な航路の目印となっていた。長崎港を出て伊王島灯台、さらに男女群島の女島灯台へと続く航路の中間に位置し、海上交通の要衝だった。
■攻撃が激化
 だが、日米開戦翌年の42年、灯台南側に軍の監視所が設置されると、島の状況は一変する。黄島上空は、中国大陸方面から九州の軍事施設を狙う米軍爆撃機B29の通過ルートとなった。灯台の無線連絡が空襲警報の端緒となるため、米軍にとって黄島は優先的に攻撃すべき拠点だったとみられる。
 45年7月、米艦載機が島を襲った。激しい機銃掃射で灯台の灯油タンクが撃ち抜かれ、火災が発生。精緻なレンズは熱に耐えきれず溶け落ち、灯台は黒くすすけた状態となった。標高92メートル地点にある灯台の周辺や道中には、今も「逓信省用地」と刻まれた石の標柱が少なくとも6カ所で確認できる。かつて国家の重要施設として管理されていた名残だ。
 攻撃が激化する中、島民らは泥にまみれて防空壕を掘った。内部は高さ1メートルほどで、大人がかがんで入るのが精いっぱいだ。島特有の軟らかい流紋岩の壁面には細い道具で何度も掘り重ねた跡が残り、当時の切迫した状況を物語る。穴は、対になる穴や三つつながった構造を持ち、斜面を突き抜けて別の出口へとつながる。
■石垣だけに
 「子どもの頃はここが格好の遊び場でした」と、戦後生まれの山下さんは振り返る。両親から直接、防空壕について話を聞くことはなかったが、暗闇を恐れず遊ぶ中で、年上の子が折に触れて由来を説いたという。自由に出入りできる遊び場は、島民がかつて敵襲から逃れ、身を寄せ合って震えた場所でもあった。
 「この穴は、子どもがかがまなくても入れたんですが…」。山下さんは足元を見つめる。かつては子どもの背丈ほどあった穴も、長い年月の間に土が流れ込み、徐々にふさがれている。
 終戦の年の45年に678人いた島民は、現在22人にまで減った。暗闇の穴に隠れざるを得なかった時代の傷跡。「この場所も、やがて消えてしまうのかもしれません」。山下さんは静かに語る。
 監視所跡は灯台南側斜面の深いやぶに石垣を残すのみとなり、防空壕もまた、徐々に迫りくる竹林に覆われようとしている。