父親の遺影を手に平和への思いを語る吉田さん=佐世保市
1941年5月、吉田秀腆さん(84)は現在暮らしている佐世保市天神地区に生まれた。その約2カ月後、市内の軍事工場で働いていた父の三盛さんが出征。45年1月5日、ビルマ(現ミャンマー)で35歳で戦死した。父についての記憶はない。父が戦没した場所を訪れたいと願い続け、定年後にかなった。現地で「父さんが見たのと同じ景色を見て感無量です。家族の幸福を見守ってください」と涙ながらに冥福を祈った。
4歳の時、3人の姉とともに終戦を迎えた。木切れが入った缶が、骨つぼとして家に届けられたと聞かされている。父を亡くし、生活は一変した。幼い頃に感じた母のシズエさんの苦労は「人生の糧」になっているという。
「母は女手一つで4人の子どもを育ててくれた。感謝しかない」。畑を耕し、米軍関係の仕事に携わり、家族の生活を守った。「並大抵のことではなかったはず。夜になると、みんなが寝静まっている中で泣いていた。どうやって生きていくか。不安や悔しい思いでいっぱいだったと思う」と振り返る。
高校卒業後は「母を幸せにしたい。働いて面倒をみる」と、大学には進まず、放送局に就職した。その後、結婚して妻、3人の子ども、そして母と、東京を中心に暮らした。母を伴い富士山を見に訪れたり、おいしい料理を食べに連れて行くこともできた。
「いつか生まれ育った場所に戻りたい」。そんな母の気持ちに寄り添い、佐世保に新しい家を構え、定年後、再び古里に移り住んだ。母は2012年4月5日、101歳で亡くなった。「人生の後半は幸せだったと思う。長生きしてもらってよかった」と感慨深げに語る。
日本遺族会が主催するミャンマーへの慰霊友好親善訪問には2度参加した。15年、マンダレーを訪れた際には、手作りの祭壇を前に「故郷の愛しい人との再会を願いながら、果たせなかった思いは無念だったでしょう。父さんは天国で母さんと会って、私たち姉弟が仲良く元気に過ごしていることを聞いていると思います。安らかにお眠りください」と語りかけた。
「遺族のつらさ、思いは同じ。慰霊を続ける必要がある」という信念で、佐世保市遺族会の会長を務め、各地の慰霊祭に出席する。「多くの人の犠牲の上に、今の平和があることを知ってもらいたい。どう次世代の後継者に伝え、活動を継続していくか。難しい問題に直面している」と危機感を募らせている。
自宅に、父の姿として唯一残っている遺影がある。孫からは「おじいちゃんに似ているね」と言われるという。父母の命日である5日には毎月、夫婦で墓参りする。「この幸せが続きますように」。両親の名前が記された墓碑に手を合わせ、祈っている。
