優しかった父、貞雄さんのアルバムをめくる悦子さん=佐世保市天神2丁目の自宅
「えっちゃん、行ってくるね。勉強をしなさいよ」。それが耳に残る最後の父の声。当時10歳だった佐世保市天神2丁目の松尾悦子さん(89)は、手を振り戦地へ向かった父、貞雄さん(当時37)の後ろ姿を80年以上が過ぎた今も鮮明に覚えている。「きちょうめんで、優しかった」。軍服を着た父の写真を懐かしそうに見つめる。
悦子さんは、4人きょうだいの長女として天神地区で生まれ育った。父は職業軍人で、帰任した際には、中国南部の海南島の貝殻やサンゴを持ち帰ってくれたこともあった。「げたの緒が1日で切れるほど散歩が好き」で、自宅からけっこう離れた亀山八幡宮までよく一緒に歩いた。1943年4月8日、父は赴任先も伝えないまま自宅を後にした。これが最後となった。
小学生だった戦時中、空襲を何度も経験した。自宅近くに旧佐世保海軍警備隊の砲台などがあり、米軍の爆撃機が頻繁に飛来。焼夷弾(しょういだん)で自宅周辺は焼け野原になった。空襲警報がなるたびに近所の防空壕(ごう)に家族で逃げ込んだ。壕の中は着の身着のまま避難する住民で満ちあふれた。時折、焼けた臭いが漂った。
玉音放送が流れた45年8月15日、近所に住むおばあちゃんが「日本が戦争に負けた」と泣いていた。終戦を迎えたと分かり、父の帰りを楽しみに待った。46年2月ごろ、どうやら戦死公報が自宅に届いたようだが、当時34歳の若さだった母、静さんはその知らせを子どもたちに伏せていた。
「風でドアがドンドンと音を立てると『お父さんが帰ってきた』と言った。帰りを待つ子どもたちに、悲しい思いをさせたくなかったのだろう」と、母の胸の内を察する。いつまでも帰ってこない父。やがて「もう帰ってこないのだ」と悟った。
後になって知るのだが、戦死公報とともに届いたのは遺骨ではなく、名前が書かれた白い1枚の布だけだった。戦友の手紙などから、父は44年7月、激戦地のグアムで自身の短刀を部下に預け、敵陣に切り込んで戦死したことを知った。「貞雄さんは面倒見が良く、お世話になった」と遺品を届けてくれた人もいた。
父の優しい人柄をうかがわせる直筆の書が悦子さん宅に飾られている。「心はやさしく/気は長く/愉快に暮らせ/人に接するには頭を低くし高ぶるな-」とある。家族はその戒めを今も大切にしている。「死を選ばず、生きて帰らんば、と誰かが止めてくれていれば」。悦子さんは悲しいまなざしで静かに語った。
