亡夫・富樹さんの遺影と遺稿を手にする松下さん=島原市高島1丁目

ピースサイト関連企画

戦争の記憶2025ナガサキ 松下冨士子さん(92) 潜水艇特攻兵の夫の体験伝えたい 「海龍」出撃前に終戦、没後に手記を出版

2025/08/16 掲載

亡夫・富樹さんの遺影と遺稿を手にする松下さん=島原市高島1丁目

 島原市高島1丁目の諧句(かいく)作家、松下冨士子さん(92)の夫で、1993年に65歳で死去した富樹さんは、旧日本海軍の特攻潜水艇「海龍」の志願兵だった。冨士子さんは2012年、供養の思いも込め、富樹さんが残した手記「残照の海」を自費出版した。「夫の戦争体験を広く世の中に伝えたい」との思いからだった。
 海龍は旧海軍が太平洋戦争末期に開発した全長約17メートルの2人乗り潜航艇。当初は魚雷を2本装備する予定だったが、物資不足から敵艦に体当たりする「特攻兵器」となった。約220隻が建造されたとされる。
 富樹さんは島原出身。建設業や旅館業を営む裕福な家庭の長男だった。旧制島原中在学時の1943年、戦闘機搭乗員を養成する海軍甲種飛行予科練習生(予科練)の試験を受けて合格。同年12月、15歳で第13期予科練生として三重海軍航空隊奈良分遣隊(奈良県)に入隊した。
 入隊後は連日、厳しい日課に明け暮れた。物理、数学、航空、気象などの座学に加え、日夜の訓練。“軍人精神注入棒”での体罰も受けた。手記には「わずか半年あまりの予科練生活で、過去の娑婆(しゃば)や中学生気分など微塵(みじん)にも吹き飛んで」と記している。

■熱 望
 転機が訪れたのは44年8月半ば。厳重に警備された道場内に予科練生が集められ、隊長から特攻志願の訓示を受けた。特攻は「強制でなく志願」とされていたが、「熱望」を示す二重丸を記して提出。秋が深まる頃、旧海軍潜水学校(広島県大竹市)に派遣され、初めて海龍について説明を受けた。
 実物を目の当たりにしたのは45年春、海軍司令部のある神奈川県横須賀市に赴任した時だった。手記には「機密兵器が、いま、私達のために待機しているかに感じた」と書いている。
 4月中旬、試験潜航中の事故で死者が出た。エンジン冷却水の取り入れ口と直結したホースが破裂し、浸水。電池室から猛毒の塩素ガスも発生し、乗組員2人が死亡した。「闇と死は、いずれ特潜乗りが遭遇する運命」と手記につづった。
 やがて三重県鳥羽市の第四特攻戦隊に派遣されることになっていたが、同年8月15日、横須賀に残留したまま終戦を迎えた。

■軍 歌
 復員後は東京の大学で学び、冨士子さんと見合いをして51年に結婚。さまざまな事業を興し、夫婦で約40年苦楽を共にした。肺がんの告知を受けて亡くなるまでの約1年半で手記を書き上げた。
 家庭ではほとんど戦時中の話をしなかったが、生前開催された戦友会に夫婦で出席した際、涙をにじませながら戦友と乾杯し、肩を組んで軍歌を歌った。五七五の17音字で心象風景をつづる諧句の作家として活躍している冨士子さんは「グラスほす目をうるませて軍歌好き」と詠んだ。
 冨士子さんは2003年、日米友好を願い戦前の両国市民が人形を贈り合った日米親善人形の歴史を伝える「長崎瓊子里帰り島原展」の実行委員を務めた。同展に「輪になれば世界のきずな響きあう」と句を寄せた。
 それから20年余り。「(戦後100年となる)20年後の世界がどのようになっているのかは計り知れないけれど、私の思いは20年前と同じ」とほほ笑んだ。