写真をじっと見詰め、当時を振り返る松田さん=西海市大島町
1枚の古びた写真をじっと見詰め、記憶を一つ一つゆっくりとたどっていく。西海市大島町の松田常葉さん(99)は、6歳上だった長兄彪(たける)さんと一緒に納まった写真を手に言葉をつないだ。「戦争で兄を亡くし、上海から鹿児島に向かう引き揚げ船は機雷と接触して沈没した。いろんな巡り合わせがあって今を生きているんです」
5人きょうだいの長女として西彼脇岬村(現長崎市脇岬町)で生まれ育った。脇岬尋常高等小を卒業後、長崎市興善町にあった長崎女子商業学校(現長崎女子商業高)に進学。下宿しながら簿記などを学んでいた。
1940年11月。彪さんが突然、学校を訪ねてきた。徴兵検査に合格し、福岡県久留米市の部隊に合流する前に会いに来てくれたのだった。「一緒に写真を撮ろう」と誘われ、近くの写真館に行った。写真はその時の1枚だ。「最後になると思って来てくれたのかもしれない。きょうだいげんかをしない優しい兄だった」と懐かしむ。
彪さんは42年に英領ビルマ(現ミャンマー)で戦死。22歳だった。兄の名前が書かれた空の骨箱だけが家に届いた。母テルさんが涙を流していたのを鮮明に覚えている。彪さんは村葬され、多くの人に見送られた。
■真冬の海
44年に学校を卒業。両親と離れ、日本軍の占領下にあった上海に向かい、三菱重工が運営する江南ドックの会計課に就職した。戦時下だったが上海では食べ物に困った記憶はない。「寮生活でみんなと交代しながら食事を作っていた。今思うと、恵まれていたのかもしれない」
そうした中、迎えた45年8月。長崎に原爆が投下されたことを人づてに耳にした。「八里四方は草木も生えない」と聞いてぞっとした。長崎にいる両親たちが無事か心配で気が気でなかったが、連絡するすべもなかった。
敗戦の年が暮れ、46年1月21日。上海から日本へ向かう引き揚げ船に乗船することができた。輸送船「江ノ島丸」に4千人を超える引き揚げ者が乗り込むため、1人当たりリュックサック一つと、わずかな荷物しか持ち込むことができなかった。
翌22日は誕生日だった。船内に突然、大きな爆発音と同時に救助を求める汽笛が鳴り響いた。船尾が傾いて徐々に沈み始め、船内はパニック状態に。後で知ったことだが、戦後間もない当時は、掃海作業などに手がつけられておらず、海に浮遊したままだった大量の機雷に船体が接触してしまったのだ。
恐怖と混乱で真冬の海に自ら飛び込み、命を失う人たちを目の当たりにした。常葉さんが必死の思いで甲板で助けを待っていると、米海軍の輸送船「ブルーバード号」が救助に現れ、荒れ狂う海の中で、米兵が手を差し伸ばしてくれた。最初は「日本を負かした国」と恐怖を覚えたが、「これも運命」と乗り込んだ。荷物は船と一緒に海に沈んだが、何とか生き延びることができた。
■祖国の土
いったん、上海に引き返し、間もなく別の引き揚げ船に乗船。今度は無事、鹿児島の港に着き、祖国の土を踏んだ。「早く家族に会いたい」。その一心だった。
鹿児島からは列車で北上。佐賀から西彼野母村(現長崎市野母町)まで船を乗り継ぎ、歩いて戻った。ようやくたどり着いた故郷。実家は原爆の被害もなく、母が笑顔で出迎えてくれてホッとしたが、父の姿がなかった。常葉さんが上海にいる間に病気で亡くなっていたのだ。「死に目に会えなかった」。今でも後悔している。
故郷に戻ってからの生活は大変だった。食糧難が続き、歯を食いしばるようにして生きた。それでも、家族と一緒にいられることが幸せだった。30歳で結婚して、今の西海市大島町に移り住んだ。「今も世界で争いは起きているが、戦争は悲しみを生むだけ」。平和の大切さをかみしめながら、今を生きている。
