叔父の千人針を今でも手元に取っている松田さん=北松佐々町羽須和免

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戦争の記憶2025ナガサキ 松田征男さん(84) 生死分けた父、「被爆者」名乗らず 学校、親戚、妹…小さな町にも暗い影

2025/05/19 掲載

叔父の千人針を今でも手元に取っている松田さん=北松佐々町羽須和免

 1940年に北松佐々町口石免で生まれ、今に至るまで町を離れて住んだことはない。幼少期を過ごした口石免には戦時中、軍事教練などを目的とした佐々青年学校があった。毎朝、青年たちが行進しながら高らかに歌い上げていた勇ましい軍歌が今も耳に残る。
 終戦間近のある日、同校の青年が食料を求めて家に訪ねてきた。母と隣の家のおばあちゃんが芋を与えた。後日、その青年は「帝国軍人が物乞いをした」として殴られるなど厳しい制裁を受けたと聞いた。
 叔父の田島文六(故人)が中国に出兵する前、家族らは千人針や寄せ書き日章旗を懸命に作り、手渡した。国民が一つの目的でまとまり、暴走してしまった当時を伝える史料として、この日章旗などを大切に保管している。

■ 差別を恐れて
 1905年生まれの父、松田禎一(故人)は戦前、朝鮮半島で警察官として働き、朝鮮語が堪能だった。能力を買われ、戦中は朝鮮人徴用工たちが働いていた西彼香焼村(現在は長崎市香焼町)の川南造船所に勤務。45年8月9日は“たまたま”休暇で佐々に帰って来ていた。「長崎に新型爆弾が落ちた!」と知らせが入り、慌てて戻っていった。
 入市被爆の体験をあまり話したがらなかった父だが、一つ言い残している。「テレビや映画で見るような、あんな生易しいもんじゃない」。妹(79)ら子どもの将来に影響が出るのではないかとも考えたのか、家族や知人が被爆者手帳の取得をどれだけ勧めても最期まで拒んだ。

 下痢や脱毛などに悩む被爆者を知り、「伝染、遺伝してしまうのではないか」と誤って思い込んでしまっていたのだろう。父は子どもや孫が就職や結婚で差別を受けるのではと恐れていた。手帳は「権利」としてもらえたはずなのに、自らを被爆者だと言いづらくさせる原爆はどこまでも残酷だ。

■ 「自決しよう」
 ラジオがなかったため敗戦を知ったのは終戦の数日後。祖母は戦争に負けると女性は米軍兵から辱めを受け、男性は戦車でひかれてしまうと妄信していた。近所の人々に「一緒に自決しよう」と説いて回っていたと後に聞いた。
 妹が米海軍の男性と結婚する際、親族は「敵国の人間と結婚するのは認めない」と猛反発。反対を押し切って結婚した妹は幸せな家庭に恵まれ、今でも元気な声で国際電話をかけてくる。
 日本人数百万人もの犠牲の上に今の生活が成り立っているのを国民は理解する必要がある。かつてこの小さな佐々町にも、たしかに戦争が影を落としていたという経験を伝えていかなければならない。=文中敬称略=