「戦争はばかげた行為」と語る久村さん=東彼波佐見町
90歳を過ぎ、記憶もおぼろげになってきた。それでも、長崎原爆が投下された日に聞いた「あの音」が、今も耳から離れない。
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年。11歳だった。8月9日の午前11時ごろ、東彼川棚町の自宅の裏山にいた。大村湾を望む丘の上に、夏ミカンの木に縄を結んで作ったブランコがあり、一人で遊んでいた。
長崎方面が一瞬「ピカッ」と光った。直後、地をはうような「ゴローン、ゴローン」という不気味な音が聞こえ、怖くなり家に逃げ込んだ。原爆が落とされたと後になって知った。
翌10日、長崎で被爆した学生ら負傷者が国鉄川棚駅からお寺に担ぎ込まれていた。母は国防婦人会に動員され、負傷者の看護をしていた。母に会いに行った時、全身血まみれの包帯姿で「お母さん、お母さん」とうめいている学生の姿を見た。
当時は両親と10人きょうだいらの大家族。老いた父は左官業をしていて、仕事以外のお礼を受け取ることはしない真面目な人だった。母は農業や機織りで子だくさんの貧しい家庭を支えていた。
43(昭和18)年、川棚海軍工廠(こうしょう)が開庁した。国鉄川棚駅の南側の海を埋め立て、低い土地の田畑は(国に)接収され、そこに工員住宅が建てられた。海軍工廠で働く人たちや家族が佐世保などから移り住んできた。
田畑を奪われた私たちは残った山の上の畑で芋だけを作っていた。食糧難のため、工員住宅の若いご婦人たちが「お芋さんの皮でいいですから分けてください」と訪ねてきた。
大家族のわが家にとって芋は大切な主食だった。だが、母は「ひもじかとはきつかけん、ちいとずつ分けて食べましょうね」と言い、イモを平等に量り分けて譲っていた。「みんなで分けて食べんとね」が母の口癖。優しい母の下で育って幸せだった。
45(昭和20)年7月、川棚にも空襲があった。平和な町に爆弾がドカンと落ちて、大勢の人が死んだ。爆弾の落ちた跡は大きな池みたいだった。父は防空壕(ごう)に泊まれるようにと、昔からあった穴を広げた。それでもジメジメしていて、穴にはコウモリがいて気持ち悪かった。
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」。同年8月15日の玉音放送は家のラジオで聞いた。子どもながらに涙が出た。たぶん負けたことより、戦争が終わったことがうれしかったのだろう。
戦争はむごたらしく、ばかげた行為。何にも関係のない人が死んだり、亡くなったりする。とにかく食糧がなく、ひもじかった。一人息子を戦争に取られ、独りぼっちになった近所の「おばちゃん」の寂しそうな表情を今も思い出す。
