嘉代子桜を訪ねて…同級生だった長崎の女性(95) 2人の足取り、生死が交錯「運命って分からない」

長崎新聞 2025/04/05 [10:09] 公開

「嘉代子桜」を見上げ、嘉代子さんとの思い出を振り返る岩永さん=長崎市城山町、城山小

「嘉代子桜」を見上げ、嘉代子さんとの思い出を振り返る岩永さん=長崎市城山町、城山小

  • 「嘉代子桜」を見上げ、嘉代子さんとの思い出を振り返る岩永さん=長崎市城山町、城山小
  • 岩永さん(右)と嘉代子さん。県立長崎高等女学校1年時のクラス写真から(岩永さん提供)
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長崎原爆の犠牲になった林嘉代子さん=当時(15)=を悼む「嘉代子桜」が今年も長崎市立城山小で満開となった。市内に住む被爆者の岩永美代子さん(95)は旧制県立長崎高等女学校1年の時に同級生だった。3日、青空の下で咲き誇る淡いピンク色の花を見上げて思った。「もう80年もたったなんて…」

 1942年に撮られた1年時のクラス写真には2人が並んで写っている。「背丈が同じくらいだったので隣になった」

 思い出の中の嘉代子さんは、ピアノが弾けて音感が良かった。きゃしゃだったが、体が軟らかく、「体操の時に足を上げると、肩ぐらいまでピューって上がった」と懐かしむ。

 互いの家にも行き来した。岩永さんの家は市中心街、中島川にかかる常盤橋のそばで、今も金物卸小売会社を営む。男性従業員が何人もいたため、「一人娘の嘉代子さんは、うちに来ると『おじさんたちが怖い』とはにかんでいた」。

 2年生になると、2人はクラスが分かれた。3年生だった44年秋からは学徒動員に駆り出された。当初は三菱長崎兵器製作所茂里町工場に動員されたが、45年春、岩永さんら生徒の一部は郊外の日見トンネルに設けられた工場に配置換えに。前後して嘉代子さんは「工場で働くには体が弱い」と気遣われ、城山国民学校(現・城山小)に疎開していた給与課に移った。「油臭くない職場で『いいなぁ』って、嘉代子さんはうらやましがられた」と、岩永さんは振り返る。

 だが、周囲がうらやんだ城山国民学校から約500メートルの地点に同年8月9日、米軍機が原爆を投下。嘉代子さんは命を奪われた。

 一方、岩永さんは仕事を休み、家の近くの病院で被爆したが、大きな被害は免れた。ただ、病院があったのは原爆の投下目標とされる常盤橋付近。市街地が雲に覆われていたため、結果的に原爆は浦上に落とされた。狙い通りなら、爆心地のすぐそばにいたことになる。

 岩永さんは語る。「運命って分からない」

 嘉代子さんを悼む「嘉代子桜」を岩永さんと一緒に記者が訪ねた。思い出話を聞きながら、考えた。生死が交錯した2人の足取りを、「運」で済ませられるのだろうか、と。

 1945年8月9日朝、嘉代子さんは「今日は仕事に行きたくない」と母に訴えたという。だが、促されて渋々、家を出た、と伝えられている。

 その朝は岩永さんも郊外の動員先に行きたくなかった。父から「診断書をもらい、休めばいい」と勧められ、付き添われて近くの病院へ。爆心地から約3キロの同市袋町(当時)だった。

 午前11時2分。岩永さんは体温計を脇に挟み、待合室に座っていた。外が真っ白に光り、驚いて入り口付近の防空壕(ごう)に飛び込み、地下への階段を駆け降りた。振り向くと、「窓ガラスが風船かちょうちんみたいにプーッと外側に膨れ上がった」。次の瞬間、ガラスは内側に跳ね返ってはじけた。ガラスの飛び散った階段をはだしで踏んで防空壕の外へ出た。足の裏にけがをしなかったことに、後で気づいた。父もけがはなく、2人で家まで走って戻った。岩永さんは体温計を脇に挟んだままだった。

 近所は爆風で瓦が落ち、家の前の中島川対岸にあった当時の県庁一帯まで火が広がった。一家は大きな被害こそ免れたが、「怖くて家にいられなかった」。その日のうちに親類を頼って避難した。

 戦争が終わり、学校再開の連絡を受けて家に戻ったのは、同年秋。嘉代子さんが被爆死したと知らされ、言葉を失った。半面、多くの人が亡くなり、「感情が動かず、悲しみがまひしているところもあった」。

 あの夏から80年。岩永さんの家業の金物卸小売会社は戦時中も途切れることなく続けられ、現在は岩永さんの息子が4代目の社長を務める。岩永さんは小学校時代からの仲良したちと今も月1回集まり、食事やおしゃべりをする。孫の成長も喜びだ。「原爆がなかったら、嘉代子さんにも楽しい人生が待っていただろうに」と、岩永さんは思う。「直接お別れを言ったわけではないので、まだどこかにいるような気もする」

 だが、岩永さんのいた病院は、原爆の投下目標とされる市中心街の常盤橋近くにあった。狙い通りなら、犠牲になったのは仕事に行った嘉代子さんではなく、仕事を休んだ岩永さんだったのでは。記者がそう尋ねると、岩永さんは「運が良かったと言うか…。運命って分からない」。

 その言葉に記者は改めて考えた。私たちは原爆を運・不運で済ませるわけにはいかない。原爆は人間が人間の頭上に落としたのだから。