太平洋戦争末期の1945年7月5日、長崎県大村市であった空襲のカラー映像が米国立公文書館に保管されていたことが11日までに分かった。同市北部の竹松地区を中心とした被害が克明に記録されており、終戦間際まで空襲が繰り返されていたことを示す資料となっている。
映像は、戦時中の資料を集めて解析している大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」(平田崇英塾頭)が9日に公開。米国から取り寄せた映像14点に含まれていた。
同団体の織田祐輔さん(39)によると、大村の映像は米軍のB24爆撃機が撮影した。米側の記録では、大村海軍航空隊などに対する爆撃のため沖縄から計201機が離陸。45年7月5日午後1時20分ごろ、大村上空に到達し、投下した20ポンド破砕(はさい)爆弾は約1万1千発に上る。
1分57秒の映像は雨のように次々に投下される爆弾に始まり、大村の空撮が続く。現在の市立竹松小(当時の竹松国民学校)周辺は、もうもうとした煙に包まれ、竹松地区に近接する黒丸地区一帯も爆弾さく裂に伴う煙が見える。基地の地面には、それまでの空襲で生じた穴も複数確認。竹松地区南側の諏訪地区の空撮もあった。
大村では44年10月25日の「大村大空襲」がよく知られる。この時、飛行機工場「第21海軍航空廠(しょう)」が攻撃を受け、飛行機は市内各地に避難。機体を隠すための掩体壕(えんたいごう)が設けられた。映像にも竹松小周辺に機体の誘導路が映っている。
だが、大村はその後も度重なる空襲を受けた。同市の「竹松を語る会」が97年に発行した書籍「むかしの竹松」によると、竹松や鬼橋に誘導路を設けた後、45年春から敵機の来襲が激しさを増し、一帯の建物は火災で焼失したと記されている。
織田さんによると、7月5日の空襲は大村海軍航空隊周辺の掩体が標的だった。「この時期の作戦としては規模が大きい。空襲が飛行場の外に広がり、町ごと焼き尽くされている」という。
豊の国宇佐市塾は今回、国内各地の空襲や特攻機の映像も公開。織田さんは「当時を証言できる人が少なくなっている中、映像は一目で何があったか分かる。どんな戦争だったかを考えてほしい」と話した。
映像は、戦時中の資料を集めて解析している大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」(平田崇英塾頭)が9日に公開。米国から取り寄せた映像14点に含まれていた。
同団体の織田祐輔さん(39)によると、大村の映像は米軍のB24爆撃機が撮影した。米側の記録では、大村海軍航空隊などに対する爆撃のため沖縄から計201機が離陸。45年7月5日午後1時20分ごろ、大村上空に到達し、投下した20ポンド破砕(はさい)爆弾は約1万1千発に上る。
1分57秒の映像は雨のように次々に投下される爆弾に始まり、大村の空撮が続く。現在の市立竹松小(当時の竹松国民学校)周辺は、もうもうとした煙に包まれ、竹松地区に近接する黒丸地区一帯も爆弾さく裂に伴う煙が見える。基地の地面には、それまでの空襲で生じた穴も複数確認。竹松地区南側の諏訪地区の空撮もあった。
大村では44年10月25日の「大村大空襲」がよく知られる。この時、飛行機工場「第21海軍航空廠(しょう)」が攻撃を受け、飛行機は市内各地に避難。機体を隠すための掩体壕(えんたいごう)が設けられた。映像にも竹松小周辺に機体の誘導路が映っている。
だが、大村はその後も度重なる空襲を受けた。同市の「竹松を語る会」が97年に発行した書籍「むかしの竹松」によると、竹松や鬼橋に誘導路を設けた後、45年春から敵機の来襲が激しさを増し、一帯の建物は火災で焼失したと記されている。
織田さんによると、7月5日の空襲は大村海軍航空隊周辺の掩体が標的だった。「この時期の作戦としては規模が大きい。空襲が飛行場の外に広がり、町ごと焼き尽くされている」という。
豊の国宇佐市塾は今回、国内各地の空襲や特攻機の映像も公開。織田さんは「当時を証言できる人が少なくなっている中、映像は一目で何があったか分かる。どんな戦争だったかを考えてほしい」と話した。



