平戸「薩摩塔」に金朝の元号 従来説より1世紀早く 石造物研究者・大石さんが調査

長崎新聞 2025/08/27 [12:10] 公開

志々伎山に残る薩摩塔から採取した銘文の拓本(大石一久さん提供)

志々伎山に残る薩摩塔から採取した銘文の拓本(大石一久さん提供)

  • 志々伎山に残る薩摩塔から採取した銘文の拓本(大石一久さん提供)
  • 平戸島南端の志々伎山の位置
  • 国内で唯一銘文が確認されている志々伎山の薩摩塔=平戸市野子町(大石一久さん提供)
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平戸島南端の志々伎(しじき)山に残る中世の石塔「薩摩塔」の1基に、中国・金朝の元号で「元光三年甲申八月四日」と刻まれていることが、大村市の石造物研究者、大石一久さん(73)の調査で分かった。鎌倉時代前期の1224年に当たる。薩摩塔は本県を含む西日本各地で約50基が確認されているが、建立年が判明したのは初めて。

 薩摩塔は中世の日中交流を物語る物証として注目されていて、建立年代はこれまで13~14世紀が中心と考えられていた。大石さんは「従来の説より約1世紀早く12~13世紀に中国から日本にもたらされた可能性がある」と指摘。調査結果は7月に刊行した石造物研究会の会誌「日引」20号で発表した。

 薩摩塔は塔身(中央部)などに神仏などの尊像を刻む異風の石塔。約70年前に鹿児島県で初めて見つかり、制作時期や場所が不明の「謎の石塔」と言われてきた。近年、石材は中国南部産の「梅園石」と判明。塔は中国で制作され、中国商人が寄港先の港や周辺の霊山などに奉納し、建立したと考えられている。

 志々伎山の志々伎神社(平戸市野子町)の「中ツ宮」跡に残る薩摩塔(高さ31センチ、幅43・5センチ)は国内で唯一、塔に刻まれた銘文が確認されている。大石さんは昨年8月、銘文の拓本を採取し、3Dスキャナーで取り込んだ画像と照らし合わせて解読した。

 その結果、銘文が記す元号は中国の「元光三年甲申」(1224年)と判明した。過去の研究では、元号の文字が不明瞭な上に、元光は改元して2年で終わっているため、日本の元号「元亨三年」(1323年)とみられていた。

 銘文は「真髙」という人物が「現世安穏」と「後世善処」を願い「大寶塔」を志々伎山に奉献したと記している。大石さんは中世の松浦党の文書を調べ、真髙は13世紀の平戸地方に定着した中国人で、海上貿易や輸送に携わる海商だと推測。母国を離れていたため元光の改元を知らなかった可能性があるとみている。

 薩摩塔は中国・明朝の海禁政策で中国商人が日本に来航できなくなり、14世紀ごろに途絶えたという説がある。大石さんは「薩摩塔が従来の説より100年ほど早く建立されていたとすれば、明の海禁政策ではなく、蒙古襲来(1274、1281年)をきっかけに奉納されなくなったのではないか」と話している。

◎非常に学術的価値高い 劉恒武・寧波大教授(東アジア海域交流史)の話

 志々伎山中ツ宮の薩摩塔は日本で唯一人名と年号が刻まれており、非常に学術的価値が高い。大石氏の調査により、九州の薩摩塔の制作と舶来は主に13世紀と考えられる。「真髙」は海商とみられ、中国・南宋時代の真姓は福建省に集中している。真一族とみられる人物が薩摩塔に近い形の塔を泉州の山に安置した例もある。