禁教下だった江戸時代末期、長崎の大浦天主堂で浦上村の潜伏キリシタンがプティジャン神父に信仰を表明した「信徒発見」(1865年3月17日)の前年、別の潜伏キリシタンが別のフランス人神父ジラールとフューレに長崎で信仰を表明したとの書簡がパリ外国宣教会文書館に残っていることが、長崎外国語大非常勤講師の宮崎善信さんの調査で分かった。
宮崎さんの専門は日韓のカトリック教会史。フランス・パリにある同文書館で今年6月までに、大浦天主堂の建設に携わったジラール神父とフューレ神父の書簡計3通を見つけ翻訳した。
フューレ神父の書簡は、信徒発見の前年の64年5月21日付。長崎からパリ外国宣教会香港事務所の神父宛てに発信していた。
書簡には、長崎でジラール神父と一緒に田舎を散策していた際(この時、プティジャン神父は横浜にいた)、浦上村の男性が「多くの浦上村の人々が主日を守っている」と信仰を打ち明けたと記していた。主日は日曜の礼拝を意味する。
当時、日本のカトリック教会の責任者だったジラール神父の書簡は長崎発パリ本部宛て。フューレ書簡の1カ月余り後の64年7月1日付。浦上村に相当数の信徒がいて、自分たちの信仰を表明する好機を待っていると記した。
ジラール神父は64年8月に横浜に戻り翌年、プティジャン神父からの信徒発見の報に接した。信徒発見から13日後の65年3月30日付で横浜からパリ本部に送った書簡でこう記していた。
「以前、私が皆さまにお伝えした浦上村の住民たちが、教会を頻繁に訪れるようになり、さらに教育を受けたいと希望しているとのことです。ただし、この件はヨーロッパの新聞を読んでいる日本人の耳に入らぬよう公表しないでください」
信徒が大浦天主堂を訪れていると伝え、禁教下にある信徒たちの身の安全に配慮する内容だった。
当時、居留地(開国後、外国人の居留や交易を許した地域)に礼拝堂の建設と、司祭や外国人の礼拝は認められていた。大浦天主堂は64年末に完成。65年3月17日の信徒発見は、浦上村の複数の信徒が大浦天主堂を訪ねプティジャン神父に信仰を表明した。禁教は続いており67年、キリシタン弾圧「浦上四番崩れ」が始まる。
宮崎さんは「浦上村の潜伏キリシタンは長い禁教令の下、絶えず宣教師に会うことを思い続けていたのだろう。それが行動として表れた。信徒が日曜のお務めを守り、仏教の教えは拝んでいるふりをしているけれど心の中では認めていないと書いている。いきなり信徒発見があったわけではなく、似たような信仰の表明は他にもあったのかもしれない。信徒発見に至る状況と背景が分かる貴重な記録」と書簡を分析した。
宮崎さんの専門は日韓のカトリック教会史。フランス・パリにある同文書館で今年6月までに、大浦天主堂の建設に携わったジラール神父とフューレ神父の書簡計3通を見つけ翻訳した。
フューレ神父の書簡は、信徒発見の前年の64年5月21日付。長崎からパリ外国宣教会香港事務所の神父宛てに発信していた。
書簡には、長崎でジラール神父と一緒に田舎を散策していた際(この時、プティジャン神父は横浜にいた)、浦上村の男性が「多くの浦上村の人々が主日を守っている」と信仰を打ち明けたと記していた。主日は日曜の礼拝を意味する。
当時、日本のカトリック教会の責任者だったジラール神父の書簡は長崎発パリ本部宛て。フューレ書簡の1カ月余り後の64年7月1日付。浦上村に相当数の信徒がいて、自分たちの信仰を表明する好機を待っていると記した。
ジラール神父は64年8月に横浜に戻り翌年、プティジャン神父からの信徒発見の報に接した。信徒発見から13日後の65年3月30日付で横浜からパリ本部に送った書簡でこう記していた。
「以前、私が皆さまにお伝えした浦上村の住民たちが、教会を頻繁に訪れるようになり、さらに教育を受けたいと希望しているとのことです。ただし、この件はヨーロッパの新聞を読んでいる日本人の耳に入らぬよう公表しないでください」
信徒が大浦天主堂を訪れていると伝え、禁教下にある信徒たちの身の安全に配慮する内容だった。
当時、居留地(開国後、外国人の居留や交易を許した地域)に礼拝堂の建設と、司祭や外国人の礼拝は認められていた。大浦天主堂は64年末に完成。65年3月17日の信徒発見は、浦上村の複数の信徒が大浦天主堂を訪ねプティジャン神父に信仰を表明した。禁教は続いており67年、キリシタン弾圧「浦上四番崩れ」が始まる。
宮崎さんは「浦上村の潜伏キリシタンは長い禁教令の下、絶えず宣教師に会うことを思い続けていたのだろう。それが行動として表れた。信徒が日曜のお務めを守り、仏教の教えは拝んでいるふりをしているけれど心の中では認めていないと書いている。いきなり信徒発見があったわけではなく、似たような信仰の表明は他にもあったのかもしれない。信徒発見に至る状況と背景が分かる貴重な記録」と書簡を分析した。
