「災害」福島から 被爆地長崎との関わり深く 長崎大支援、川内村の高い帰還率

2021/01/15 [17:00] 公開

「仮置き場」では、袋に入った除染廃棄物がトラックに積み込まれていた=福島県川内村(荒木勝郎撮影)

 福島県大熊町から、役場まで車で30分。キノコや山菜などの山の幸に恵まれ、清流にはイワナが生息する自然豊かな山あいに、川内村はある。2016年までに全域で避難指示が解除された。2527人が住民登録し、その約8割が実際に居住。大熊町とは対照的だ。

■理由
 東京電力福島第1原発事故では一時、郡山市への役場機能移転を含めた全村避難を余儀なくされた同村。だが、12年1月には大熊町などを含む双葉郡全8町村の中では最も早く、村外で避難生活を送る住民らに帰還を呼び掛ける「帰村宣言」を出した。福島第1原発から離れ、比較的放射線量が低いことなどが理由だった。除染も進み、村の放射線監視装置(モニタリングポスト)は取材に訪れた日、原発被災地以外の場所とほぼ変わらない1時間当たり「0.057マイクロシーベルト」を示していた。
 同村と被爆地長崎との関わりは深い。13年3月、長崎大は被災地復興のため、被ばく線量の測定や住民の健康相談などで支援する包括連携協定を結んだ。同大はこれまでに双葉郡内の3町村と同様の協定を締結しているが、その皮切りとなったのが、いち早く「帰村宣言」をした同村だった。
 その縁で、遠藤雄幸村長はこれまでに3度、「長崎原爆の日」の平和祈念式典に参列。長崎くんちの演(だ)し物に、同村が無償提供したヒノキも使われた。「原爆の影響を受けた土地の知見が、川内村の高い帰還率につながった。長崎の復興の歩みは、まだまだ参考になることがある」。遠藤村長はこう力を込め、被爆地との交流に期待を寄せる。

 

■設置
 村の外れ。森林に囲まれた場所で、除染廃棄物がトラックの荷台に次々と積み込まれていた。村外の中間貯蔵施設へ搬出する前に、廃棄物を詰めた袋を一時保管する「仮置き場」。村内には10の仮置き場があったが、1月中には全ての搬出が完了する予定という。
 同村に隣接する富岡町。町に入ると、見渡す限りの広大な田畑に、のどかな風景とは不釣り合いなソーラーパネルが一面に設置されていた。
 「若いもんは都会に行っちまったまま、活気が戻んねえ。農家には後継者もいねえ。ものを作っても売れねえんだ」。町内の復興公営住宅。農業を営んできた男性(73)が、田畑に売電用のソーラーパネルを設置せざるを得なかった同業者の心中を代弁した。
 男性自身の田畑は同町の「帰還困難区域」にあり、除染廃棄物の仮置き場と化した。足を踏み入れることができない田畑の方向を見詰め、寂しげにつぶやいた。「もうすぐ(廃棄物の搬出は)終わるけど、(仮置き場となった田畑の)除染とかしたら、(営農再開まで)数年はかかる。それまでに生きてられるか。もう農業はできねえな」
 同町では17年4月以降、一部を除き避難指示が解除されたが、大熊町と同様に住民の帰還の動きは依然、鈍い。富岡町内に住んでいるのは住民登録者の1割強だ。

田畑だった場所を覆い尽くすように設置されたソーラーパネル=福島県富岡町(荒木勝郎撮影)

■希望
 そうした中でも、復興に向けた新たな動きもある。町内の復興公営住宅の一角に日曜限定カフェ「Cha茶Cha」がオープンしたのは20年10月。町のにぎわいづくりと復興につなげようと、震災を経験した地元の語り部らでつくるNPO法人が手掛けた。住民手作りの菓子などを提供し、採算度外視の運営が続く。
 接客に当たっている松本愛梨(28)は、郡山市出身。昨年から同法人で事務局員として働き、ほぼ同時期に富岡町に移住した。「元々住んでいた郡山と比べても、若い人が少ないし、土日にお店がほとんど開いてなかった」。それでも、震災直後と比べて徐々に人が増えていく町の姿に、復興への希望を抱いている。

日曜限定カフェ「Cha茶Cha」。被災地では復興への模索が続く=福島県富岡町

 カフェには毎週日曜の営業日、20人前後が訪れる。近くのJR富岡駅を利用した県外からの客も少なくなく、店内で住民から被災地の現状を教わる光景も見られるという。「まず(被災地のことを)知ってもらい、忘れないことが復興につながる。それは同じ放射線災害があった長崎、広島にも共通していると思う」
 店から歩いて10分。太平洋を望む海沿いの土手に立った。一帯では民家や駅舎などが津波にのまれた。冷たい海風が吹き付ける。近くでは、復興への堤防工事のショベルカーが、せわしなく動いていた。=敬称略=

工事が進む海岸沿いの堤防=福島県富岡町