生きる力 東京パラへのエール<上>車いすバスケでパラ5大会出場 南川佐千子(56)

2020/10/06 [14:43] 公開

 生まれ育ち、大切な家族と暮らす佐世保市。この日本の西の果てから、南川佐千子はパラリンピックに5回も出場した。自らの世界を大きく広げてくれた車いすバスケットボール。「生きる力は、人生の中で培ってきた」。そんな自分の姿を知ってもらうことで「街づくりと障害者スポーツの環境を変え、誰かの理解や勇気につながったら…」。たくさんの期待を込めて、ボールを追い掛けてきた。
□広がる世界
 幼いころは活発で、ほとんど外で遊んでいた。車いす生活が始まったのは日宇小4年生の時。不慮の事故で脊椎を損傷して、下半身まひになった。まだ幼い弟妹がいる家庭の長女。「これからどうなるんだろう。親に申し訳ない…」と悲観もしたが、母の村井ツヨ子の献身的な介助、リハビリを経て約10カ月後に学校に戻った。友人の協力もあり、中学も普通校の日宇中に通った。
 中学3年生のころ、これからの人生の「パワーの源」と出合う。リハビリ担当の理学療法士に、当時県内唯一の車いすバスケットボールチームだった長崎WBC(現・長崎サンライズ)の試合に連れて行ってもらった。
 けがをして以降、体育の授業は見学で、スポーツはいつも見る側。車いすでもさっそうとコートを駆け抜け、生き生きとスポーツを楽しむ選手の姿がまぶしかった。メンバーは年上のお兄さんばかりだったが「あの人たちと一緒に走りたい」と思った。
 チームに飛び込んだはいいものの、最初は「何もできなかった」。シュートは届かず、走るのもついていけない。高校卒業までは「試合に出ても活躍できたわけじゃない」。それでも、試合や遠征に同行して、自らの世界が広がるのが楽しかった。
 当時の主将で県バスケットボール連盟理事の山田健一が懐かしそうに振り返る。「最初は大丈夫かな…と思ったけれど、さっちゃんは“芯”が強かった。女の子1人で踏み出すには大変な勇気がいったはず。でも、その一歩は大きかった」
□厳しい現実
 新しい世界を知ったころ、進路で厳しい現実を知る。普通高校へ進学相談に行ったが、やんわりと養護(現・特別支援)学校を勧められ、受験を断念。東彼川棚町の桜が丘養護(現・特別支援)学校高等部に進んだ。
 「どうして一般の社会でチャレンジさせてくれないんだろう」。最初は葛藤を抱えながらの高校生活だった。学校に隣接する国立療養所川棚病院(現・長崎川棚医療センター)に入院して通学。そこでは難病の生徒も一緒に暮らしていた。
 元気だった筋ジストロフィーの先輩は、徐々に筋肉が萎縮して他界した。6人部屋で朝起きたら、1人が心臓まひをおこして5人部屋になっていた。生きたくても生きられない、動くことさえかなわない子たちの存在…。生きていることが、どんなに素晴らしいことかを肌で知った。
 「この日常をみんなに知ってほしい。自らの視野も広げたい」。卒業後、社会福祉を勉強するため、愛知県の日本福祉大へ進学。名古屋市の車いすバスケットボールチームに入った。=敬称略