長崎原爆の爆心地から西約500メートルにあり、児童約1400人が犠牲になった城山国民学校(現長崎市立城山小、同市城山町)。被爆の実相を伝える被爆校舎(城山小平和祈念館)には、児童の遺影はこれまで1人しか展示されていなかった。一帯が焼け野原となり、手がかりが失われたためだ。9日で被爆80年を迎える長崎原爆の日を前にした7日、新たに1人の遺影が加わる。
3年生だった當麻(とうま)ミヨ子さんの幼少期の写真で、いとこの卒業生、齊藤武男さん(87)が市に寄贈した。
齊藤さんによると、當麻さんは1945年4月、現在の市役所近くから城山地区へ引っ越した。空襲による延焼を防ぐ目的で建物を撤去して空き地を広げる「建物強制疎開」のためとみられる。生まれた時に母を亡くしており、幼い頃は城山の齊藤さんの家に預けられ、一緒に育てられていた。齊藤さんは、同い年だが早生まれで1学年上の當麻さんを「ミヨちゃん」と呼び、姉のように慕った。
當麻さんは、再婚した父のところに戻った後も齊藤さんの家によく遊びに来た。電車の停留所から息せききって駆けてきた。父が迎えに来ても、帰りたくなくて押し入れに隠れた。その頃の女の子の流行だった、きれいな色紙を集めていた…。そうした姿を齊藤さんは覚えている。
45年7月、齊藤さんは父の故郷の宮崎県に一家で疎開。翌月、学徒動員のために残った兄や當麻さんら親族計7人が被爆死した。當麻さん一家4人は家の裏口付近で骨が見つかり、継母はおなかに胎児がいた、と後に聞かされた。
齊藤さんは被爆校舎に児童で唯一展示されている遺影も2023年に寄贈している。幼なじみで3年生だった宮崎猶志(ゆうじ)さんの写真だ。一方、幼少期の當麻さんの写真は被爆校舎の展示には向かないだろうと寄贈をためらっていた。今年、国際非政府組織(NGO)の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)による被爆死した子どもをインターネット上で追悼するプロジェクト「子ども平和メモリアル」に応じたのを機に、託すことにしたという。
「この写真から、彼女の生い立ちや暮らし、それらが原爆によって一瞬で奪われたことを想像してほしい。同じような子どもがたくさんいたことまでイメージを広げてもらえればうれしい」と齊藤さんは話す。
被爆校舎を管理する城山小被爆校舎平和発信協議会の山口政則会長(81)は遺影の寄贈を喜び、「多くの人が見て、核兵器の残虐さと被爆死した子どもの無念さに思いをはせてほしい」と話している。
3年生だった當麻(とうま)ミヨ子さんの幼少期の写真で、いとこの卒業生、齊藤武男さん(87)が市に寄贈した。
齊藤さんによると、當麻さんは1945年4月、現在の市役所近くから城山地区へ引っ越した。空襲による延焼を防ぐ目的で建物を撤去して空き地を広げる「建物強制疎開」のためとみられる。生まれた時に母を亡くしており、幼い頃は城山の齊藤さんの家に預けられ、一緒に育てられていた。齊藤さんは、同い年だが早生まれで1学年上の當麻さんを「ミヨちゃん」と呼び、姉のように慕った。
當麻さんは、再婚した父のところに戻った後も齊藤さんの家によく遊びに来た。電車の停留所から息せききって駆けてきた。父が迎えに来ても、帰りたくなくて押し入れに隠れた。その頃の女の子の流行だった、きれいな色紙を集めていた…。そうした姿を齊藤さんは覚えている。
45年7月、齊藤さんは父の故郷の宮崎県に一家で疎開。翌月、学徒動員のために残った兄や當麻さんら親族計7人が被爆死した。當麻さん一家4人は家の裏口付近で骨が見つかり、継母はおなかに胎児がいた、と後に聞かされた。
齊藤さんは被爆校舎に児童で唯一展示されている遺影も2023年に寄贈している。幼なじみで3年生だった宮崎猶志(ゆうじ)さんの写真だ。一方、幼少期の當麻さんの写真は被爆校舎の展示には向かないだろうと寄贈をためらっていた。今年、国際非政府組織(NGO)の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)による被爆死した子どもをインターネット上で追悼するプロジェクト「子ども平和メモリアル」に応じたのを機に、託すことにしたという。
「この写真から、彼女の生い立ちや暮らし、それらが原爆によって一瞬で奪われたことを想像してほしい。同じような子どもがたくさんいたことまでイメージを広げてもらえればうれしい」と齊藤さんは話す。
被爆校舎を管理する城山小被爆校舎平和発信協議会の山口政則会長(81)は遺影の寄贈を喜び、「多くの人が見て、核兵器の残虐さと被爆死した子どもの無念さに思いをはせてほしい」と話している。



