耳が遠くなり、認知症も進んだ。「尋ねている意味が分からないよ」。荒木キク子さん(97)は、そう繰り返す。長崎市内の高齢者施設で暮らしている。部屋を訪ねた次女智佳子さん(64)が大きな声で「原爆のことを教えて」と何度か問いかけると、キク子さんは歳だったあの日、1945年8月9日のことを少しずつ語り始めた。
トンネルの外に倒れていたおびただしい数の人々
五島列島・嵯峨島の実家を離れ、仕事に就いていた姉2人と、弟1人のきょうだい4人で長崎市平戸小屋町に住んでいた。瓊浦高等女学校4年だったが、その年の春から学徒動員で市内の三菱兵器住吉トンネル工場(爆心地から北に2・3㌔)に配属されていた。証言をまとめると、キク子さんがいたのは現在の赤迫1丁目側の入り口付近とみられる。工作機械で金属板を削り、完成した航空機用魚雷の部品を棚に並べるのが仕事だった。
8月9日は朝から作業を続けていた。昼前に強い風がトンネルを吹き抜け、棚の部品が落ちた。原爆がさく裂した音はよく覚えていない。恐る恐るトンネルの外を見ると、他の作業員やトンネル掘削に従事していた朝鮮人労働者、いつも弁当を配ってくれる挺身隊の女性らおびただしい数の人が負傷し、倒れていた。
川を避けて生きる
トンネルの前には線路があった。しばらくすると汽車がやってきたので、動ける学生の仲間と3人がかりで、けが人を1人ずつ汽車まで運んだ。やけどを負った腕の皮ふがずるりとむけ、運ぶのに苦労した。
どれほどの人を運んだだろう。7歳上の姉トメさんによると、キク子さんが平戸小屋町の家に帰ってきたのは11日だった。その間、どこでどう過ごしていたのか、キク子さんは記憶があいまいだ。ただ、通りがかった浦上川は、水を求める人々で水面が見えないほど埋め尽くされていたことをはっきりと覚えている。
戦後は嵯峨島に戻り、小学校教師になった。同僚と結婚して2女をもうけた。その後、再び長崎市に移り住んだが、むごたらしい過去と結び付く浦上川だけは避けるように生きてきた。
戦争伝えるニュースに敏感に反応
昨年7月、キク子さんは脳梗塞で倒れ、軽度だった認知症は一気に進んだ。智佳子さんはキク子さんの体調を案じるとともに、焦りにかられた。被爆の記憶が、このまま消えてしまうのではないかと。
かつて母が「結婚する時は『被爆2世』とは言わないほうがいい」とぼそりと口にしたこと、毎年8月になると連日泣いていたことが印象に残っていた。「戦争はダメだ」とことあるごとに話し、世界各地の戦火を伝えるニュースには敏感に反応していた。
何がそうさせるのか。断片的に被爆体験は聞いていたが、母が全て忘れる前に形にしたかった。被爆証言の聞き取りを進める国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に相談し、今年1月、聞き書きの手記を残した。
体験を直接聞くことはできないひ孫へ
前後して生まれたるのちゃんは、キク子さんからみてひ孫、智佳子さんからみて姉の孫に当たる。るのちゃんはきっと、キク子さんの体験を直接聞くことはできない。智佳子さんは手記を「母から新しい命へのメッセージ」と言う。戦後年がたち、被爆者や戦争体験者は高齢化。記憶は薄れゆくが、「まだ間に合う。家族間で残す取り組みが広まってほしい」と望む。
かつての母のように、子どもたちが兵器を作り、竹やりで人を殺せと教えられる世の中にはしたくない。
「るのちゃんが大きくなった時に、戦争がないようにしてほしいね」
智佳子さんが語りかけると、キク子さんはとろんとした目で、少しだけ口角を上げた。
トンネルの外に倒れていたおびただしい数の人々
五島列島・嵯峨島の実家を離れ、仕事に就いていた姉2人と、弟1人のきょうだい4人で長崎市平戸小屋町に住んでいた。瓊浦高等女学校4年だったが、その年の春から学徒動員で市内の三菱兵器住吉トンネル工場(爆心地から北に2・3㌔)に配属されていた。証言をまとめると、キク子さんがいたのは現在の赤迫1丁目側の入り口付近とみられる。工作機械で金属板を削り、完成した航空機用魚雷の部品を棚に並べるのが仕事だった。
8月9日は朝から作業を続けていた。昼前に強い風がトンネルを吹き抜け、棚の部品が落ちた。原爆がさく裂した音はよく覚えていない。恐る恐るトンネルの外を見ると、他の作業員やトンネル掘削に従事していた朝鮮人労働者、いつも弁当を配ってくれる挺身隊の女性らおびただしい数の人が負傷し、倒れていた。
川を避けて生きる
トンネルの前には線路があった。しばらくすると汽車がやってきたので、動ける学生の仲間と3人がかりで、けが人を1人ずつ汽車まで運んだ。やけどを負った腕の皮ふがずるりとむけ、運ぶのに苦労した。
どれほどの人を運んだだろう。7歳上の姉トメさんによると、キク子さんが平戸小屋町の家に帰ってきたのは11日だった。その間、どこでどう過ごしていたのか、キク子さんは記憶があいまいだ。ただ、通りがかった浦上川は、水を求める人々で水面が見えないほど埋め尽くされていたことをはっきりと覚えている。
戦後は嵯峨島に戻り、小学校教師になった。同僚と結婚して2女をもうけた。その後、再び長崎市に移り住んだが、むごたらしい過去と結び付く浦上川だけは避けるように生きてきた。
戦争伝えるニュースに敏感に反応
昨年7月、キク子さんは脳梗塞で倒れ、軽度だった認知症は一気に進んだ。智佳子さんはキク子さんの体調を案じるとともに、焦りにかられた。被爆の記憶が、このまま消えてしまうのではないかと。
かつて母が「結婚する時は『被爆2世』とは言わないほうがいい」とぼそりと口にしたこと、毎年8月になると連日泣いていたことが印象に残っていた。「戦争はダメだ」とことあるごとに話し、世界各地の戦火を伝えるニュースには敏感に反応していた。
何がそうさせるのか。断片的に被爆体験は聞いていたが、母が全て忘れる前に形にしたかった。被爆証言の聞き取りを進める国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に相談し、今年1月、聞き書きの手記を残した。
体験を直接聞くことはできないひ孫へ
前後して生まれたるのちゃんは、キク子さんからみてひ孫、智佳子さんからみて姉の孫に当たる。るのちゃんはきっと、キク子さんの体験を直接聞くことはできない。智佳子さんは手記を「母から新しい命へのメッセージ」と言う。戦後年がたち、被爆者や戦争体験者は高齢化。記憶は薄れゆくが、「まだ間に合う。家族間で残す取り組みが広まってほしい」と望む。
かつての母のように、子どもたちが兵器を作り、竹やりで人を殺せと教えられる世の中にはしたくない。
「るのちゃんが大きくなった時に、戦争がないようにしてほしいね」
智佳子さんが語りかけると、キク子さんはとろんとした目で、少しだけ口角を上げた。



