1944年2月、15歳で国鉄に就職した。西彼長与村(現長与町)の長与駅勤務となり、同村三根郷の自宅から歩いて通った。戦争が激しくなると、人手が足りず男性職場も女性が代わって働いた。線路のポイント切り替えもするし、最終列車の後は貨物が来るので、24時間の徹夜勤務もしていた。
私は切符を売る出札係で、45年8月9日朝は前日午前8時から24時間勤務の徹夜明け(非番)だった。いつもなら朝礼後に帰宅するが、仕事が残っていたため、午前11時ごろ駅長室を出た。
ホームの外れに差しかかった頃、長崎方面から「ドーン」と大きな音がして「ふわん」と風が来た。少し前、上空に敵機を見たので自分が狙われたと思ったのだろう。気がつくと、ホーム下の土手の草むらに身を置いていた。空はだんだん暗くなった。
当時、警戒警報が発令されれば駅員は夜中でも出勤していた。この時も駅へ戻った。駅や周辺は停電して信号がつかない。列車が駅へ入れるように合図灯で手信号を送るなど徹夜で仕事が続き、3週間は帰宅できなかった。
被爆した時、長与駅には上下2列車がいた。うち長崎行き下り列車がまず救援に向かった。何時だったろうか。被爆者を乗せて駅に着いた列車の窓から見た人はほとんど頭や顔から血を流していた。ホームで倒れて亡くなる人、長与の救護所に運ばれる人、そのまま列車で諫早、大村方面に運ばれる人がいた。
長与駅で働く2、3歳年下の男女がその日の朝、浦上駅近くの購買所まで使いに出されていた。男性は見つからず、女性は焼け焦げた姿で見つかった。駅長室の前に横たわる遺体を見たときは、ショックで言葉も出ず、ただ手を合わせるだけだった。
改札口での光景も忘れられない。9日の夕方だったと思う。列車を降りてくる人の中に赤ちゃんを抱っこした男性がいた。はだしなのに足の皮膚が垂れ落ちて、まるで草履を履いているようだった。2人とも衣服は焼け、お互いの皮膚がぴったりくっついているように見えた。
私も被爆3日目ごろに歯茎から出血した。血が口にたまって話せないし、食べられない。出血は10年ぐらい止まらず、体重は37キロまで落ちた。健康で虫歯もなかったのに歯はぐらぐら。歯茎の大手術を2回受けた。よく生きてきたと思う。
◎私の願い
戦時中の生活は今では考えられないほど厳しかった。当時は「これが当然」と思っていたが、本当は「当然」ではなかった。戦争は人が起こすもの。人と人は仲良く、平和に過ごし幸せな人生を送りたい。戦争は絶対に起こしてはいけない。
