当時14歳だった。若松村(現在の新上五島町)の中学校を卒業し、村から3人で一緒に長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)の看護婦養成所に進んだ。寄宿舎で寝泊まりしながら、1年生として実習に入ったばかりだった。
実習先は病院の外科病棟。調来助教授の「調外科」だった。8月9日の朝は別の先生の回診に付き添い、病棟1階にいた。消毒液を入れた洗面器を持って、先生の後ろにいた。原爆が落ちた瞬間は音も光も感じず、気づいたときには床に倒れていた。
右手首が深く裂け、血が噴き出していた。爆風で窓ガラスが砕け、刺さってはいなかったが、破片で切ったのだろう。何が起きたのか分からず、ただ泣いた。近くにいた先生が駆け寄り、タオルで手首を強く縛った。痛くて緩めようとしたら、「ばか、それを外したら出血で死ぬぞ」と叱られた。その傷よりも、縛られた痛みの方が今も記憶に残っている。
病院は鉄筋コンクリートで崩れなかったが、構内にあった木造の寄宿舎は跡形もなかった。生徒の多くは病棟に出ていたが、寄宿舎にいた子たちは皆、亡くなった。病院では負傷者の手当てが行われていたが、技術のない1年生の私たちは裏の方で、炊事など雑用しかできなかった。
若松村の実家に戻ろうとしたが、船は全て徴用されており、交通手段がなかった。焦る気持ちを抱えて、大波止の港まで何度も通った。「船はない。今日も出ない」。そう言われては、焼け野原の街を、疲れた足を引きずって何度も往復した。生き残った人、亡くなった人。路地の隅で放置された遺体もあった。もう口にしたくないような光景ばかりだった。
終戦直後だったろうか、ようやく船が出た。若松村に戻ると、力が抜けた。両親はすすけた衣服のまま下船した私を見て、ただ「早く風呂に入りなさい」と言った。情報が限られた時代。原爆のことはまだ伝わっていなかった。
一緒に長崎へ行った同級生2人も、帰郷はできたが、間もなく亡くなった。原因は分からなかった。毎日、「次は自分かもしれない」と思いながら過ごした。髪も抜けず、高熱も出なかった。後遺症もなかった。ただ一つ、結婚後も子どもができなかった。原爆のせいかもしれない、そう思う気持ちは、ずっと消えずに残っている。
◎私の願い
毎日のように空襲警報が鳴り、いつ死ぬか分からない不安の中で生きていた。戦争が終わったときは、心からほっとした。原爆症の不安を抱え、まさか、こんなに長く生きるとは思わなかった。あんな思いは二度としたくない。平和な時代が、ずっと続いてほしい。
