旧西彼式見村牧野郷(現長崎市牧野町)の実家はコメやサツマイモ、麦を作っていた。小作人だったので収穫したコメはわずかしか残らず、貧乏でいつも空腹だった。
60代だった父は体が弱く、一番上の兄は出征。2番目の兄は長崎の造船所で働き、母と3人の姉が畑を守っていた。末っ子の私は、農作業用に飼っていた牛が食べる牧草を準備するのが日課だった。
あの日はよく晴れて朝から暑かった。段々畑を通って牧草地まで歩き、草を刈った。丈が50センチほどに伸びた草を両手いっぱいに担ぎ上げ、頭や肩で支えて下を向いていた。
ピカッと光った瞬間は分からない。だが突然、「アチッ」と思うほどものすごく暑くなり、担いでいた草を思わず放り投げた。視界が開け、長崎方面にもくもくと立ち上るきのこ雲が見えた。怖くなり、近くで畑仕事をしていた男友達や近所の女性たち数人と一緒に農作業小屋へ逃げた。
帰宅すると、床板は外れて建具もなくなり、ふすまやしょうじが折れ曲がっていた。家はぼろぼろだったが、どこかに隠れていたのか、祖母や両親、3人の姉にけがはなかった。家族全員の無事にほっとして、サツマイモばかりの夕食をとった。
長崎市に落とされたのが原爆だったと知ったのはいつごろだったのか。よく覚えていない。
式見中を卒業後、農業や漁業を手伝った。20歳ごろに佐世保市に移り、溶接工として懸命に働き、妻と出会って結婚。2人の子どもに恵まれた。50歳のときに妻の実家がある旧南高国見町(現雲仙市国見町)に引っ越した。
実家の隣に住んでいた30代だった男性が、被爆して十数年後に白血病で亡くなったと親戚から聞いた。「原爆のせいで死ぬのでは」と不安に駆られ、親戚に勧められて被爆者健康手帳を申請した。
私が被爆した牧野郷は、国が定めた被爆地域の内に入っている。旧式見村では向郷(現長崎市向町)、木場郷(同園田町)、牧野郷は第1種健康診断受診者証が交付され、一定の病気があると診断されれば手帳に切り替わる。
このため1981年に手帳を取得できたが、旧式見村西側の田舎郷(同四杖町)の知人には交付されていない。同じ式見村だったのに、被爆者だと認められないのはおかしいと思う。手帳を取得できたことに申し訳なさも感じている。
◎私の願い
週に3回、ゲートボールをするのが楽しみだ。仲間同士で助け合える点が気に入っている。今は戦中戦後とは違い、食べたい物が何でもある。戦争ほど恐ろしいものはない。話し合い、信用し合う平和な世の中にしてほしい。
