木下紀子さん(84)
被爆当時4歳、爆心地から10.2キロの西彼伊木力村(当時)で原爆に遭う

私の被爆ノート

記憶は膝の痛みだけ

2025年6月12日 掲載
木下紀子さん(84) 被爆当時4歳、爆心地から10.2キロの西彼伊木力村(当時)で原爆に遭う

 当時の西彼伊木力村山川内郷に両親、祖母、伯母と暮らしていた。近年、有名になった天正遣欧少年使節の千々石ミゲルの墓所の近く。墓所は当時、竹やぶの中にあり、怖くて走って通っていた。
 女学生だった伯母は、大村の工場に動員され、落下傘を修理していた。戦闘機が伊木力上空を通り、飛行場などがある大村をよく爆撃していた。「ぶーん」という戦闘機の音が聞こえたら「ミカンの木の下に入りなさい」と教わり、しっかり守っていた。
 1945年8月9日午前、二つ上の近所のお姉さんと、自宅近くの小さな田んぼの水路で遊んでいた。すると、近くで洗濯をしていたお姉さんがやって来て、がばっと覆いかぶさった。その時に感じた膝の痛みしか、記憶はない。母は婦人会で松ヤニを取りに山に行っていた。大草の別の地区では、玄関の障子や板が風圧で倒れたという話を聞いた。
 父の妹一家が長崎市の爆心地に近い岩川町にいて、いとこ3人が長崎から歩いて来た。「お姉ちゃんたちと遊べる」とうれしかった。しかし、数日後、父から「その部屋に入ったらいけない」と言われた。破れた障子の間から見ると、髪がすべて抜けた3人の頭が並び、苦しそうに息をしていた。村の医者が診に来ていたが、いつの間にか、いなくなっていた。たぶん亡くなったのだろう。竹の久保にいた母の姉一家も、防空壕(ごう)で息絶えていたという。
 畑のカボチャの大きな葉に灰が積もっていた。麦を農具の唐箕(とうみ)にかけて、ごみを落とした後にむしろの上に干していたが、灰が降り積もり、もう一度、唐箕にかけたという話も聞いた。私の家は山から引いた水を飲んでいた。
 大人になり、国が原爆投下当時の行政区域だけを被爆地域にしたと聞き、疑問に思った。2002年、爆心地から半径12キロ以内が健康診断特例区域になった後、居住地を理由に認められなかったことなど、度重なる国の制度変更に振り回されてきた。
 昨年9月の被爆体験者訴訟判決は「黒い雨」が降った地域の原告を被爆者と認めたが、灰が降った地域の原告は認めなかった。原爆投下当時、伊木力村には灰などの放射性降下物が降り注ぎ、その影響を受けたかもしれない水や野菜などを何も知らずに口にしていた。この問題が解決しない限り、私の戦後は終わらない。

◎私の願い

 戦争は子どもなど弱い人が被害に遭う。どんな理由があってもだめだ。言葉を持っている人間は話し合いで、争いを解決できるはず。戦争をしたら、核兵器を使うかもしれない。戦うことをやめると、世の中は普通に過ごせるだろう。

ページ上部へ