諫早市で生まれ、第2次世界大戦が始まった頃、父親が長崎市の銀行に勤めていたため、伊良林2丁目に家族で引っ越した。戦争が激しくなり、国民学校4年の時、北高小江村(現在の諫早市高来町)に疎開した。
1945年8月9日の朝、長崎に住んでいた次姉の元を訪ねるために、小江駅で長姉と列車を待っていた。「乗る番が来た」と思った瞬間、「はい、ここまで」と止められ、次の列車を待つことに。
次の列車に乗り、窓を開けて外を見るのが楽しかった。西彼長与村の長与駅に停車中、空がピカッとして、列車のガラスが粉々に割れた。「はよ、かごめ(伏せろ)」と長姉が叫んだ。振り向くと、乗客はいすの下にいた。半袖シャツと短パンだったため、右ひじと、ももから下の足にガラス片が刺さり、血だらけだった。痛くてうまく伏せることができなかった。その後、駅裏側の山に避難した。山の半分は焼け、木がなかった。
長与から長崎に歩いて行こうとしたが、(赤迫の)六地蔵の先は火の海で進めなかった。前から歩いてきた人たちは、男性か女性か分からないほどだった。近くにいた人たちが「空襲警報」と叫んでいたので、葉が付いていない木の下に隠れた。幼い私は石の上に乗っていたが、近くの川の水かさが増し、つま先立ちをして木につかまった。
その後、諫早に向かう列車に乗ることができたが、元気そうだからと、諫早駅から小江までのトラックになかなか乗せてもらえなかった。
上から3番目の姉は長崎の活水女学校生だったが、爆心地近くの工場に動員されていた。工場近くの電車通りで先生と手をつないでうつぶせで倒れていたのを捜しに行った父が見つけた。名札で姉だと分かり、父が近くの木々を集めて火葬した。家族は悲しみに沈んだ。
長崎大教育学部を卒業後、県内の公立中で美術教諭を務めた。被爆者健康手帳を取得したのは被爆から約50年後の1994年。被爆の事実を証明してくれる人が長い間、見つからなかった。定年退職後、惨状を描いた絵を見せながら学校で語り部を続けた。
あの日、予定通りの列車に乗っていたら、原爆が落とされた時間に長崎市内に着いていたはず。次の列車を待ったことで救われた。あれが運命の分かれ目だったと、今でも思う。
◎私の願い
みんなが平和で暮らせる世の中が一番いい。戦争に行き、帰ってこなかった若い人たちと、その親たちを見てきた。原爆で傷ついた人たちの姿は今でもはっきりと思い出す。戦争はもう嫌だ。戦争も核兵器もない世の中であり続けてほしい。
