1945年6月、自宅があった長崎市材木町(現賑町)は強制疎開の対象となり、家族6人で城山町1丁目(当時)に移った。活水女学校に通い、学徒報国隊として飽の浦町の三菱長崎造船所で魚雷の部品を作っていた。
8月に入ると学校で体調を崩した。数日は城山の自宅には戻らず、西山町2丁目の次女の姉夫婦の家で過ごした。
9日。居間でめいに昼ご飯を食べさせていると、どーんというすごい音がした。「どこに落ちたとやろうか」。そう思った瞬間、畳が持ち上がるほどの爆風に襲われ、戸や障子が居間まで押し寄せた。台所にいた姉は吹き飛ばされ、気が付くと、めいと3人で抱き合っていた。昼過ぎ、材木町で働いていた父が安否を確かめに来た。3人の無事が分かると、自宅があった城山に向かっていった。
翌朝、父が西山に戻ってきて言った。「火の海で入られんかった」。昼ごろから、4人で父の実家がある西彼三重村(当時)に向けて歩き始めた。西山から浦上の方に進む途中、高台から町を見下ろして驚いた。民家がある西山とは一変し、浦上方面に広がっていたのは黒い土地。その中で浦上天主堂だけが、ゴーゴーと音を立てて燃えていた。路上にはやかんと見間違うほど黒く焦げた人の頭が転がり、浦上川には人や馬の死体が浮かんでいた。滑石の峠を越え、夜に何とか到着した。
11日、大橋の親戚3人も三重にやってきた。25歳くらいの女性が子ども2人を連れていたが、間もなく全員亡くなった。遺体に湧くうじを箸で1匹ずつ取り除くことしかできなかった。翌日、家族の遺骨を拾うため、父と城山の自宅に行った。「何かあった時はここに集まれ」と、父がよく話していた部屋の一角に母と長女、弟2人の遺骨が固まっていた。ただ立ち尽くした。涙は出なかった。
戦後は父と2人で上小島に家を借りた。父から家事を習い、程なくして銀屋町に移った。薬屋で1年ほど働き、終戦から3年後には結婚。2人の子どもに恵まれた。新たに築いた家庭で健康被害はない。だが、被爆から約10年して父は肺がんで亡くなった。
今では家族を捜して爆心地近くを目指した父に放射線の影響があったと思えてならないが、被爆者援護などなかった時代に知るよしもない。当時から変わらず覚えているのはがんを患い腹部が張った姿だった。
◎私の願い
今まで大変だった。つらい経験をみんなそれぞれ乗り越えてきた。孫やひ孫、その先の世代まで戦争がないことを願っている。だから、世界が平和になるように、原爆に関心を持ってほしい。頭の片隅に置いて、忘れないでほしい。
