私の被爆ノート 佐藤照治さん
佐藤 照治(87)
佐藤照治さん(87)=雲仙市=
被爆当時15歳 長崎逓信講習所の学生
爆心地から3.1キロの長崎市麹屋町で被爆

私の被爆ノート

体に刺さるガラス片

2017年10月12日 掲載
私の被爆ノート 佐藤照治さん
佐藤 照治(87) 佐藤照治さん(87)=雲仙市=
被爆当時15歳 長崎逓信講習所の学生
爆心地から3.1キロの長崎市麹屋町で被爆

 実家は旧南高愛野村にあった。1945年7月、モールス通信技術者を養成する長崎市麹屋町の長崎逓信講習所の電信科2期生となり、同市東浜町(現浜町)の伯母夫婦宅に下宿した。
 2期生50人は3階建て校舎の2階に教室があった。私は爆心地方向が見える北西向きの窓近くの席だった。8月9日は普段通り授業があったが、空襲警報が鳴り、学生や教職員は校庭に掘った防空壕(ぼうくうごう)や1階の講堂に身を潜めた。解除になった後、教室に戻った。
 午前11時2分、閃光(せんこう)と爆発音、爆風が校舎を襲い、一斉に窓ガラスが割れた。とっさに机の下に隠れ、両手の指で両目と両耳をふさいだ。左手に血が垂れてきて、頭をけがしたことに気付いた。数分して頭を上げると、教室には私を含め窓際の学生5人だけが残っていた。5人とも半袖シャツと長ズボン姿で、ガラス片が左半身の腕や頭に刺さって流血していた。他の学生や教員はすでに講堂や防空壕に避難したようだった。
 日ごろ校舎内でははだしだったので、床に散乱したガラス片を踏んで痛かったが、無我夢中で講堂へ逃げた。「伯母夫婦やいとこは無事か。どこにどんな爆弾が落ち、どれくらい被害があったのか」。講堂に着いた後、ぼうぜんとしながら考えた。
 その後、自宅で待機するよう教員から指示があった。伯母宅へ帰る途中、中通りの商店街は人でごった返していたが、日常の光景とは違い悲惨だった。
 服が焼け、皮膚がただれ、ふらふらと無気力に足を引きずる人。道端にうずくまっている人。あちこちから聞こえる苦しそうなうめき声。擦れ違いざまにけが人とぶつかり、血がべっとりと左腕に付いた。たまらず裏通りの道にそれて、家路を急いだ。
 伯母宅は物が散乱していたが、伯母夫婦やいとこの3兄弟にけがはなく無事だった。近くの山の防空壕に避難したがいっぱいで入れず、大木の根元にござを敷いて二晩を明かした。県庁周辺など長崎市中心部は火事になっており、夜空が赤々としていた。
 11日早朝、愛野村の実家へ疎開するため長崎を出発。伯母夫婦の勧めもあり、1歳下で旧制長崎東陵中3年のいとこと一緒に14時間かけ歩いた。実家でゆっくり過ごし、15日、日本が戦争に負けた。悲しかったが、ほっとした部分もあった。

<私の願い>

 核戦争になれば、1対1の国同士だけの問題では済まない。それぞれ同盟国などがあり、複数の国を巻き込むことになる。私たちが原爆や戦争の悲惨さを地道に若い人に伝え、浸透させる必要がある。世界各国がお互いに手を携えることが平和への道だ。

ページ上部へ