下平フミさん
下平フミさん(93)
被爆当時17歳 爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町4丁目で被爆

私の被爆ノート

続く死臭 どこまで

2021年2月4日 掲載
下平フミさん
下平フミさん(93) 被爆当時17歳 爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町4丁目で被爆

 三菱病院(今の重工記念長崎病院)内に設けられた看護婦養成所の学生だった。授業や実習など、病院内で勉強しながら、看護を手伝う日々だった。
 8月9日、そろそろ昼食の準備をしようかと、先輩たちと病院内で話していた時だった。突然、建物が今までにないほど大きく揺れた。割れた窓ガラスが後頭部に刺さり、顔中が血だらけになった。すぐに近くにいた数人と互いにガラスを取り除き、消毒と止血をした。
 鉄筋コンクリートの頑丈な建物の中にいたため光や爆風には気付かなかったが、間もなく、浦上方面から続々とけが人が病院に押し寄せてきた。顔は赤黒く腫れて水疱(すいほう)ができ、背中全体にやけどを負った人々。「水をくれ、水をくれ」と口々に叫んでいた。どうしてこんなやけどをしたのか、その時は分からなかった。秘密兵器が落とされたらしいと知ったのは、数日後のことだ。
 翌10日から15日の終戦まで、5人ほどの班に分かれ、飽浦国民学校など市内に開設された救護所を駆け回り、看護の手助けをした。うじ虫が負傷者の傷口に盛り上がるほど大量にわいていた。ピンセットで1匹ずつ取り除き、包帯で巻いたが、翌日もまた同じようにわいた。薬はない。赤チンなどで消毒することしかできず、苦しむ人を前に、涙を流すしかなかった。見た目は無傷の人も、4、5日ほどたつと髪が抜け、血を吐きながら亡くなっていった。爆心地付近は死臭に包まれ、どこまでこの臭いが続くのかと思った。あの臭いは今でも忘れることができない。
 水の浦町にあった自宅は屋根が吹き飛んだが、倒壊は免れ、家族は無事だった。被爆者ということを知られると嫁に行けなくなるからと、父が被爆者健康手帳の申請をしないと決めたため、手帳は57歳まで持たなかった。長崎には50年、草木も生えないといわれたが、被爆翌年、草が生えているのを見て友人と喜んだ。希望が湧いてくるのを感じた。
 終戦翌年に養成所を卒業し、約5年間、病院で被爆者の看護に携わった。22歳で結婚。翌年、長女を出産したが、健康に生まれるか心配で仕方なかった。幸い、家族が被爆による病気になることはなかったが、いつかは自分も白血病になるのではと不安が絶えなかった。

◎私の願い

 終戦から75年がたち、核兵器の抑止力に頼るような意見も出ているが、原爆だけはつくってほしくない。「持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を守り世界に広げていくことが大切だ。日本にも、他国にも、核は持ってほしくない。

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