石原公明さん(91)
被爆当時16歳 爆心地から1.2キロの長崎市茂里町で被爆

私の被爆ノート

町の惨状理解できず

2021年1月21日 掲載
石原公明さん(91) 被爆当時16歳 爆心地から1.2キロの長崎市茂里町で被爆

 長崎市茂里町の三菱長崎製鋼所第一工場で爆弾の尾翼を造っていた。ピカッと閃光(せんこう)が走り、ドーンという爆音。吹き飛ばされて意識を失い、気が付くと、床にうつぶせに倒れていた。工場は全壊。隣の第二工場の鉄骨があめのように波打っていた。肘のすり傷で済んだのは奇跡的だった。
 周囲には誰の姿もない。慌てて工場から逃げ出した。近くの梁川橋に立つ男女3人の姿に目を疑った。服が燃えたのか男は丸裸、女性2人は乳房をさらし、腰に布を巻いていた。3人とも全身の皮膚はどす黒く、びらびらと焼けただれ、髪の毛は縮れていた。辺り一帯の家は見渡す限り倒壊。何百もの敵機の攻撃を受けてもこんな惨状になるとは思えず、理解できなかった。
 住んでいた城山町1丁目=当時=の至誠寮は土台のコンクリートだけが残っていた。8日が夜勤だったら寮で寝ていたことだろう。ぞっとした。水を求めて息絶えたのか、浦上川には皮をはいだウサギのような、男女の見分けもつかない丸裸の人が100人以上折り重なるように倒れていた。
 昼すぎ、西町踏切近くで救援列車を待っている時に工場の同僚と会い、しばらくして来た列車に一緒に乗り込んだ。2、300メートル進んだところで、敵機が低空飛行で来襲。列車を飛び降り、山伝いに歩いて逃げた。長浦村(今の長崎市長浦町)の同僚宅にたどり着いたのは真夜中。翌日昼、亀岳村(今の西海市西彼町)にあった実家に着くと、母親が「よう、けがせんにゃ帰ってきた」と無事を喜んだ。
 原爆投下から10日ぐらいして、長崎から逃れてきた人たちが相次ぎ亡くなった。私も20日ぐらいたった頃、鼻や歯茎、尻から、どす黒い大量の血が出た。その後は寝たきり。貧血などの症状に苦しみ、「死んだほうがまし」と何度も思った。
 病院の先生は毎日診察に来てくれたが、薬も注射もない。近所の人には「助からない」と漏らしたという。母親はできる限りのことをしてくれた。ビタミン剤になると柿の葉を煎じたお茶や、ユズとスルメと煎じたものなどを毎日大量に飲まされ、貧血に効くと牛の肝を入手し、食べさせてくれた。年末まで起き上がることができなかったが、奇跡的に回復した。その後、大病を患うことはなかったが原爆症への不安は、ずっとつきまとった。

◎私の願い

 核兵器削減、廃絶が進まず、悔しい。原爆は長崎を最後にして、戦争は二度とあってはならない。何度か小学校で自分の被爆体験を語り、原爆の恐ろしさを伝えたこともあるが、90歳を超えた今は平和を祈ることしかできない。

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