永田直人さん(88)
被爆当時12歳 県立瓊浦中1年 爆心地から4.1キロの西彼杵郡福田村大浦郷(当時)で被爆

私の被爆ノート

苦しむ恩師救えず

2020年11月26日 掲載
永田直人さん(88) 被爆当時12歳 県立瓊浦中1年 爆心地から4.1キロの西彼杵郡福田村大浦郷(当時)で被爆

 旧制県立瓊浦中1年生だった。毎日、西彼福田村本村郷(現在の長崎市福田本町)の自宅から片道2時間かけて、わら草履で通学していた。
 あの日も、福田村の同級生ら6人と学校に向かった。現在の長崎市飽の浦町と大浜町の境辺りで、ふと足を止めた。学校は6月から7月にかけて機銃掃射を受けたり、グラウンドに爆弾を落とされたりして、直径約15メートルの大穴が開いた。また攻撃されるのでは-。そんな恐怖心から同級生と冗談話をして気を紛らわせた。
 時間がたっていた。「いまさら学校へ行っても意味ない。帰ろうか」。同級生にそう声を掛け、家に戻ろうとした時、「キーン」と耳なじみのあるB29のエンジン音が聞こえた。空を見上げると白い箱のようなものが二つ、空から浮かぶようにして落ちていく。おそらく、原爆の威力を計測するために米軍が落としたラジオゾンデだったのだろう。次の瞬間、紫と赤と黄色を混ぜたような異様な閃光(せんこう)が走った。
 目と耳を手で覆い、とっさに泥道の地面に伏せた。爆音とともに、首から背中にかけて熱風を感じたが、けがはなかった。周囲を囲う森が守ってくれていたのだ。学校の方角を見ると、紫がかった黒煙が見えた。「学校がやられた」。そう直感した。
 約1週間後、学校の様子が気になり、同級生と2人で向かった。爆心地から約800メートルにあった校舎は跡形もなくなっていた。校門のすぐそばに、「ロゼッタ先生」のニックネームで、私も大好きだった世界史の男性教員がいた。先生は、膝を曲げて前かがみになり、嘔吐(おうと)しつづけていた。「かわいそう」と思いながらも、苦しむ先生に声を掛けることさえできず、何の介抱もできなかった。後日亡くなったと聞き、今でも申し訳なく思う。
 瓊浦中は、生徒や教員合わせて400人余りが犠牲になった。うち114人は、将来への希望を胸に、共に校門をくぐった同じ1年生。あの日、登校していたら私の命もなかっただろう。当時は食料もなく、自分が生きることに精いっぱい。学友を失った悲しさを感じる余裕はなかった。
 学友ら被爆死した人は、世界平和を望んでいるはず。だから「みんなのために平和運動に携わりたい」と思い1990年ごろ、県被爆者手帳友愛会に加わった。核兵器の廃絶が私たちの一番の願いだ。

<私の願い>

 核兵器を廃絶してほしい。核兵器禁止条約の発効も決まり、世界は一歩前進している。日本政府は相手を思いやり、対話で核問題を解決してほしい。75年前の過ちを繰り返さないために、核兵器国と非核兵器国の「橋渡し」に努めてほしい。

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