高橋七生子さん(91)
被爆当時17歳 爆心地から8.5キロの土井首町で被爆

私の被爆ノート

生ぬるい風と異臭

2020年4月23日 掲載
高橋七生子さん(91) 被爆当時17歳 爆心地から8.5キロの土井首町で被爆
 

 長崎市磯道町の実家のすぐそばに唯念寺という大きな寺があり、兵隊たちが15人ぐらい寝泊まりしていた。土井首町にある煮干し加工場付近を当時は「鬼頭(おにづか)」と呼んでいて、そこに軍需工場があった。兵隊たちと一緒に、燃料を入れるドラム缶のさびを落として洗浄する作業を強制的にさせられていた。
 原爆が投下されたのは、ドラム缶を洗っている時だった。オレンジのような柿のような色が「ピカッ」と光り、生ぬるい風と何ともいえない異臭が漂った。その後に「ドーン」という音がした。海に面した船場からは、さえぎるものがなく市中心部が見える。音がした方向に目を向けると、きのこ雲が見えた。「新型爆弾だ。防空壕(ごう)に入って」。兵隊が叫んでいたのを覚えている。
 午後6時ごろまで工場近くの防空壕で過ごして帰宅し、その日は母たちと家の近くの防空壕で一夜を明かした。翌日になって、市中心部は爆弾が落ちて全滅していると聞いた。近所10軒ぐらいの男性たちは防空壕を掘るため、住吉方面に借り出されていたが、結局誰も帰ってこなかった。近所の人たちを探そうと、浦上地区に行こうとしたが、「焼け野原だから行くな」と止められた。後から聞いた話だが、男性たちは路面電車に乗っているときに被爆したらしい。遺族たちは誰だか分からない骨を拾って墓に入れたそうだ。
 10日に市中心部から同級生が帰ってきたので会いに行った。見た目は傷も何もなかったから「良かったね」と安心していたら、翌日、急に亡くなった。浦上地区に住んでいた母の知人は、家が焼けてしまったので、子どもを連れて避難してきた。2、3日泊まって、別の知人のところに行ったが、すぐに亡くなったと聞いた。住吉方面で防空壕を掘っていた叔父は、やけどをしていて、1カ月ぐらいで亡くなった。みんな長くは生きなかった。
 終戦から2年後、19歳で結婚した。夫はシンガポールで2年間、イギリスの捕虜になっていたという。結婚は親同士で決めていて、顔を見たこともないのに、1カ月もしないうちに夫婦にされた。破談にならないように急いだのだろう。夫を初めて見たのは結婚式の当日。白足袋を履いていたので、夫だと認識した。「親同士が決めたから仕方ないか」。そんな時代だった。

<私の願い>
 兄2人は台湾とミャンマーで、それぞれ戦死した。日本が勝つと思っていたので悲しかった。あの日に見た光、におい、雲は忘れない。いまだに寝る時に思い出して恐ろしくなる。犠牲になった人たちのためにも戦争はしてはいけない。

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