初田邦代さん(81)
被爆当時6歳 城山国民学校1年 爆心地から0.5キロの長崎市城山1丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

鼻血止まらず恐怖

2019年10月31日 掲載
初田邦代さん(81) 被爆当時6歳 城山国民学校1年 爆心地から0.5キロの長崎市城山1丁目(当時)で被爆

 当時は木造平屋の一軒家に両親ときょうだい6人で暮らしていた。父は三菱に勤めており、兄2人も働きに出ていた。
 1945年8月9日は2級上の次姉と家にいた。2人で縁側で遊んでいた時だった。セミの抜け殻を見つけて観察していると、エンジン音が聞こえてきた。初めて見る大きな飛行機が飛んでいた。機体は真っ赤に見えた。その後は気を失ってしまい、何も覚えていない。
 家は全壊し、私と次姉はがれきの下敷きになった。母と長姉が私たちを必死で捜し、がれきを除去して夕方ごろにようやく見つけ出したという。私は救出された時に意識を取り戻した。
 私は右腕に大けがを負った。次姉は右目の上に木材が突き刺さり、出血していた。家が山際にあり、火事にならなかったので助かった。
 その日の夜は家のそばの防空壕(ごう)で一夜を過ごした。父が掘った壕なので、中は泥だらけだった。父は足を負傷していたが、11日に帰ってきたという。
 10日か11日に、長兄がリヤカーに私と次姉を乗せ、母の妹が暮らしていた三重村に疎開した。道中、浦上川沿いには多くの遺体が横たわっていた。兄は「川の水に毒が入っている。水を飲んで亡くなったのだろう」と話していた。
 疎開先ではきちんと食事をさせてもらい、ひもじい思いはしなかった。9月9日。朝から両親が訪ねて来た。うれしかったが、実は三重の病院で死亡した次姉の亡きがらを引き取りに来たのだった。とても仲が良い姉だったので、悲しくてたまらなかった。
 その日から鼻血が止まらなくなり、よく寝込むようになった。いつもバケツをそばに置いて寝ていた。「死ぬのではないか」という恐怖を感じていた。
 長崎の実家に帰ると、がれきを集めたバラックが建っていた。雨漏りするので、あちこちに器やバケツを置いていた。両親は命を取り留めた私のことを「よくここまで持ってくれた」と話していたらしい。
 48年に城山小が再開するまでは稲佐小に通った。右腕の傷はたびたび化膿(かのう)した。見られるのが嫌で、高校卒業まで真夏でも長袖を着ていた。就職した後、長崎大学病院で右腕の傷の手術を受け、ようやく半袖が着られるようになった。

<私の願い>

 大好きだった姉が亡くなり、原爆で体と心に傷を負った。50代で胃に腫瘍ができて全摘出し、60代で脳髄膜腫の手術をするなど入院を繰り返した。若い人や今の政治家たちは戦争を知らない。戦争は絶対に起こしてはならない。

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