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山田ミヨ子
山田ミヨ子(82)
山田ミヨ子さん(93)=長崎市=
当時22歳 県小運航統制組合 会計課勤務
爆心地から3.6キロの長崎市本籠町(当時)で被爆

私の被爆ノート

動けぬ母「水ほしい」

2016年12月8日 掲載
山田ミヨ子
山田ミヨ子(82) 山田ミヨ子さん(93)=長崎市=
当時22歳 県小運航統制組合 会計課勤務
爆心地から3.6キロの長崎市本籠町(当時)で被爆

長崎市江平町にある2階建ての木造住宅で、父母、兄と妻子の4人、姉2人、妹2人と家族11人で笑顔が絶えない日々を過ごしていた。

9日の朝、「空襲警報が鳴ったら家に戻ってくるね」と母と約束して、いつも通りに出勤した。勤務先の事務所があった大音寺で作業をしていると、上空を飛行機が通過する音が聞こえた。窓を開けて外を見ると突然、目の前が黄色に。「ドーン」という音がしたので、すぐ机の下に隠れた。辺りが静まり返って諏訪神社方面を見ると、燃え上がっていた。

「逃げるぞ」。同僚のひと言で、急いで支度をした。最初に大音寺の防空壕(ごう)に避難しようとしたが、人数が多くて入れなかった。

仕方なく同僚と一緒に浦上方面に向かい、立山経由で自宅に戻ることに。その途中の坂道で、焼け落ちた自宅が見えた瞬間、足がすくんだ。

自宅近くの段々畑のあぜ道を通ると、母がぼろぼろになった着物のまま倒れていた。「お母さん」と声を掛けると「体が痛いから病院に連れて行って」と言う。でも近くの病院は焼けて跡形もなく、母のそばにいるしかなかった。その日の夜空は街の惨状とは対照的に、星が輝いてきれいだった。

翌日はかんかん照り。一番上の姉と一番下の妹が勤務先から帰ってきた。身動きができない母が「水がほしい」と言葉を発した。段々畑のそばを流れている川の水を手ですくって3杯ほど母に飲ませると、静かに息を引き取った。

姉妹3人で母を自宅近くで焼いた。その後、米軍機から白い紙切れが何枚か落ちてきた。拾ってみると「アメリカは新型爆弾を発明した。早く天皇にお願いしてこの戦争を止めるように」というようなことが日本語で書いてあった。怖くなってその紙切れを思わずポケットに入れた。

ほかの家族7人のうち、兄嫁らしき遺骨が自宅の庭から終戦後に見つかった。兄と2人の子ども、2番目の姉は自宅またはその周辺で、父は岩川町の仕事場で、下から2番目の妹は松山町の工場で亡くなったと思うが、遺体は確認できなかった。

母を焼いた日、南高千々石町(現雲仙市千々石町)にいた母の友人を頼ろうと姉妹3人で歩いて向かった。日見トンネルを抜け、途中2カ所で知人宅に泊めてもらい、3日後にたどり着いた。

<私の願い>

改憲に向けた動きや国際情勢の変化でいつ戦争が起きるか不安。戦争の恐ろしさを知ってほしいと、来年の正月に遊びに訪れる小学4年と1年のひ孫に被爆体験を話すことにした。一瞬にして家族を失うことを味わってほしくない。

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