松下 徹夫
松下 徹夫(82)
松下徹夫さん(82)
爆心地から3キロの長崎市万才町で被爆
=長崎市鳴滝1丁目=

私の被爆ノート

荼毘の異臭 教室まで

2016年3月31日 掲載
松下 徹夫
松下 徹夫(82) 松下徹夫さん(82)
爆心地から3キロの長崎市万才町で被爆
=長崎市鳴滝1丁目=

当時、新興善国民学校の6年生。自宅は県庁に近い万才町にあった。自宅1階は散髪屋だったが、働き手が出征したため休業。2階で弟と伯母、祖母と暮らしていた。

あの日は自宅前の道を友達2人と掃除していた。空を見上げるとB29が見えた。発令されていたのは比較的危険度が低い警戒警報だったので不審に思っていると、落下傘のようなものが地上に降りていくのが目に入った。直後、ピカッとまばゆい閃光(せんこう)が視界全体を覆った。自宅に飛び込むと、爆風で店の窓ガラスの割れる音がした。周囲がだんだん暗くなった。

20分ほど息を潜めていると、少しずつ明るくなった。伯母と祖母の無事を確認できたが、弟がいない。外に飛び出すと、県庁が燃え、反対側の長崎女子商業学校方面からも火が上がっていた。家族で町内の防空壕(ごう)に避難した。しばらくすると、すすで顔を真っ黒にした弟に再会できた。

町は火の海と化した。親戚宅に身を寄せるため、古賀に向かった。道端には馬の死体が転がり、血まみれで助けを求める人もいた。次の爆弾の恐怖を感じながら、無言で歩いた。途中、網場の個人病院で避難者におにぎりを配っていた。空腹だったのでありがたく、今も忘れられない。古賀に着いた時には暗くなっていた。

終戦後、再開した学校の校舎は救護所として使われた。大八車で運ばれた死体が校庭で毎日のように荼毘(だび)に付された。強い異臭は教室にまで漂ってきた。

大八車から死体の首だけが炎の中に転がっていくのを目にしたり、焼かれる直前に断末魔の悲鳴が聞こえた気がしたり。あれは半死状態だったのか。恐ろしい光景を日常的に目にして、しばらくは夜も眠れなかった。賑町や築町など市内中心部のあちこちで遺体を焼いていて、町中に異臭が充満していた。

<私の願い>

原爆投下後に見た悪夢のような光景は少年期の心に強烈な印象を残した。終戦直後、進駐軍に殺されるといううわさも広がり、子ども心に死を覚悟した。戦時中の記憶はあまりに悲惨で家族にさえ語る気になれなかった。人類の恒常的平和だけが願い。日本には戦争放棄を永久に貫いてほしい。

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