丸田 榮
丸田 榮(85)
丸田榮さん(85)
爆心地から約4キロの長崎市東立神町で被爆
=平戸市大島村=

私の被爆ノート

雷どころではない音

2015年7月9日 掲載
丸田 榮
丸田 榮(85) 丸田榮さん(85)
爆心地から約4キロの長崎市東立神町で被爆
=平戸市大島村=

被爆当時、15歳。大島村国民学校を卒業し、養成工として長崎市へ。飽の浦町の寮で生活しながら、三菱長崎造船所の立神工場で船の溶接作業に携わっていた。

当時の食事はにぎり飯が続いていて、おかずはほとんど無い状況だった。寮でも、態度が悪ければ上期生からびんたされるという生活。工場では夏の暑さで、とても仕事にならなかった。

あの日は昼食当番だったため、工場内の食堂に向かっていた。準備に取り掛かろうとした時、目の前で「ピカッ」と閃光(せんこう)が走った。周囲には同じ当番者が数人いて、窓の方に確認に行こうとしていたが、私はとっさに机の下に隠れた。

次の瞬間、雷どころではないとても大きな音とともに爆風が襲ってきた。机の下にどれくらい隠れていたかは分からないが、幸い自分は軽傷で済んだ。部屋の中は割れたガラスが散乱し、荒れ果てた状況になっていたと思う。またその日は、原爆が落ちる前に空襲警報が解除されていたため、工場近くで泳いでいた子どもが、全身にやけどを負っていたことを覚えている。

原爆投下の次の日だったと思う。工場の仲間と、三菱兵器製作所大橋工場に生存者を捜しに行った。道中にはあちこちに死体が転がり、膨れた死体が川に浮いていた。暑さに耐えられず川の水を飲もうとしたら、仲間から「飲むな」と怒られた。あちこちから「助けてください」との声が上がっており、私たちはそのたびに担架に乗せて運んだ。そのため、大橋工場にはたどり着かなかった。

結局、怖くなって、2、3日で故郷の大島に戻った。同郷出身者の中には、原爆症で亡くなった人もいた。被爆したことについては、周囲から避けられることを恐れて、あまり話さないようにしてきた。

<私の願い>

当時は食べるものもなく、とてもつらい生活を送っていた。被爆時のことを思い出すと、今でも怖いし耐えられない思いだ。現在、世界には原爆以上の破壊力を持った爆弾があり、それが使われるかもしれないと思うと怖い。もう二度と、ああいう戦争を繰り返してほしくない。

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