中野 隆三・上
中野 隆三・上(85)
中野隆三さん(85)
爆心地から1・5キロの長崎市西郷(現在の西町)で被爆
=佐賀県伊万里市朝日町=

私の被爆ノート

原子雲はっきり見えた

2015年7月2日 掲載
中野 隆三・上
中野 隆三・上(85) 中野隆三さん(85)
爆心地から1・5キロの長崎市西郷(現在の西町)で被爆
=佐賀県伊万里市朝日町=

佐賀県の伊万里商業学校(現在の伊万里商業高)3年生だった1945年2月、学徒動員で三菱兵器製作所大橋工場に配属。電気配線工事や電気室の配電盤操作を担当し、住吉町のトンネル工場工事にも携わった。食事は大豆かすとトウモロコシを混ぜたご飯ばかり。白米だけをたくさん食べたいというのが、ささやかな願いだった。

同級生約150人のうち、予科練などに志願した30人を除いた約120人が動員された。栄養失調などを理由に30人ほどが自宅に戻っていたが、残る約80人があの日、長崎にいた。

8月9日は夜勤明けで、西郷の寮で過ごしていた。午前9時半ごろ空襲警報があり、寮の裏手の防空壕(ごう)に避難。戦闘機は上空を通り過ぎ、10時20分ごろには警報が解除された。前日から寝ていなかったので、寮の2階の部屋に戻ると横になった。

ようやく眠りに就いたころ、何かで頭を殴られたような衝撃を受け、目を覚ました。壁土が煙幕のように舞い、部屋の柱は倒れ出し、木造2階建ての西郷寮は倒壊し始めた。「逃げないと命がない」。窓から飛び降りなければと思った瞬間、体は寮の横にあった田んぼに投げ出された。寮は、がれきと化した。

飛行機の爆音が聞こえたので逃げようとしたが、右足を負傷していて立ち上がれない。後頭部には大きな傷があり、服は血だらけになっていた。地面をはって逃げていると、同級生が肩を貸してくれて、近くの雑木林に逃げ込むことができた。寮の方を見ると、血にまみれた同級生たちが次々と逃げ出してきていた。ふと上空に目をやると、桃色のだるまのような原子雲がはっきりと見えた。

大橋工場から逃げてきた人が、爆弾で工場が全壊したと教えてくれた。広島に落ちた新型爆弾ではないかと皆で話していると、がれきとなった寮が燃え上がった。間もなく、炎の中から「助けて」と女性の悲鳴が聞こえた。寮の事務員の若い女性だった。2、3人が救助に向かったが、女性は材木の下敷きとなっていて、救い出せなかったらしい。「助けて、助けて」-。女性の声は次第に小さくなり、炎の中に消えた。私たちは皆、その場に立ちすくんだ。

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