工藤トヨ子・下
工藤トヨ子・下(78)
"工藤トヨ子さん(78)
爆心地から3・1キロの長崎市三川町で被爆
=長崎市三川町="

私の被爆ノート

終戦後も不安な日々

2015年5月29日 掲載
工藤トヨ子・下
工藤トヨ子・下(78) "工藤トヨ子さん(78)
爆心地から3・1キロの長崎市三川町で被爆
=長崎市三川町="

原爆投下から1週間近く防空壕(ごう)生活を送った後、自宅では家族に加え、家が焼けた近所の人や親戚を含む計約20人が一緒に暮らし始めた。

8月15日、父と仲が良かった薬屋の男性が家を訪れ、終戦を迎えたことを教えてくれた。ラジオで聞いたと言っていた。

父が近所の人に終戦を告げていると、警察官が飛んできて大声で怒鳴った。「戦争が終わったなんてどこから聞いた」「そんなことがあるはずない」「おまえは何者だ」

スパイと疑われた父は、警察に連行された。証拠探しのため、家の中も捜索でめちゃくちゃにされた。翌日、父は無事に帰ってきた。

さらに数日後、「アメリカ軍が上陸する」と情報が入った。見つかれば殺されると思い、家で大人たちが話し合った。

「山に逃げんば」

「逃げてもすぐ見つかるやろう」

「家に火を付けてここで死のう」

「みんなで死ねば怖くない」

「誰が火を付けたら良いだろうか」

大人たちが半分泣きながら、死ぬことを真剣に考えていた。

話し合いの最後に「死ぬのはいつでもできる」と誰かがぽつりと言った。結局、私たちは山へ逃げることとなった。

ジャガイモやカボチャなどの食料をかばんに大量に詰め込み、草履のまま山を登った。

戦争は終わったが、終戦という実感は何もない。いつ敵機に撃たれるか、いつ米兵に見つかって殺されるかという不安でいっぱいだった。

私たち子どもは絶対に騒がないようにきつく言われ、物音もなるべく立てないように過ごした。ご飯を炊くときも、なるべく煙が出ないように、細心の注意を払った。布団は持って行ったのか覚えていないが、恐ろしさでいつもよく眠れなかった。バクバクと鳴る心臓の音が米兵に聞こえないだろうかと不安だった。

10日間ほどひっそりと山で過ごし、私たちは家に戻った。なぜ戻ったのかは分からない。しかし、みんな逃げ回ることに疲れ果てていた。

そのうち私たちの町にも米兵が来た。子どもたちにチョコレートやチューインガムをくれた。あれほど怖いと思っていた米兵が優しくて拍子抜けした。もらった菓子はとても甘くておいしかった。

<私の願い>

日中関係や日韓関係など、日本を取り巻く世界情勢に不安を感じる。今、戦争が起これば確実に核戦争になる。それは絶対に避けなければいけない。平和である今の時代だからこそ、今後どのように平和を保ち、広げていくのかを考えていきたいし、未来を担う若い人たちにも考えてもらいたい。

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