森 笑
森 笑(85)
森笑さん(85)
入市被爆
=諫早市多良見町=

私の被爆ノート

負傷者から目そらす

2015年4月9日 掲載
森 笑
森 笑(85) 森笑さん(85)
入市被爆
=諫早市多良見町=

当時15歳。諫早市長田にある自宅近くの工場で働き始めたばかりだった。会社名は覚えていない。職場で最年少だった私は、名前が「笑」なので、「わらうちゃん」と呼ばれて、かわいがられていた。

仕事は戦争に使う道具作り。午前8時から午後5時まで、鉄を流し込む木枠を組む作業に毎日追われていた。

あの日、昼が近づくと、急に大人が廊下をばたばたと走り、騒がしくなった。「見て」と同僚。手を引かれ、窓から空を見上げると、長崎市の方角が赤く染まっていた。

工場の男性たちは長崎の稲佐町にある本社にトラックで向かった。私たち女性は、待機して情報を待った。

負傷者が次々と列車で諫早市に運ばれてきた。近くの国民学校でも手当てをすることになり、姉が救護に呼ばれた。何が起きているのか知りたくて、私もこっそり歩いて学校の門まで見に行った。運動場を敷き詰めるように横たわった負傷者。怖くて、吐き気がした。すぐに目をそらした。

数日後、救護を終えた姉が自宅に戻ってきた。姉が部屋に入ると、人が焼けたようなにおいが充満した。「臭い」。私と弟はとっさに逃げた。においは、しばらく取れなかった。

11日、本社の掃除をするため、トラックで長崎へ向かった。15年間、ほとんど諫早を出たことがなかった。西も東も、どこへ向かうのかもわからなかった。窓の外では、馬が無残に転がっていた。

稲佐町の本社の建物は、室内がめちゃくちゃだった。3日ほどとどまり、オフィスに散らばった物を、元の場所に片付けるなどした。

終戦後、怖いことが起きた。被爆して、かすり傷一つなく諫早に逃げてきた本社の職員が、突然亡くなったのだ。何が起きたのか。怖くて震えが止まらなかった。

<私の願い>

当時は声に出して言えなかったが、戦争は嫌だ、早く終わってほしいと心から思っていた。焼けただれた負傷者の体、姉にこびり付いたにおい。今も鮮明に覚えている。誰もこんな体験はしなくていい。単純なことしか言えないが、みんなが仲良くして、二度と戦争を起こさないでほしい。

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